「正しさとは何か」

テレビ朝日系のニュースネットワーク、ANNニュースは、

「プーチン大統領は25日、ロシアの文化功労者へのスピーチで、「日本では追悼の日にも誰が原爆を落としたのかは言わないことになっている」「日本の教科書ではアメリカが虐殺行為を行ったと説明せず、真実を無視している」

とも述べて、日本はアメリカに追従し、西側諸国は歴史認識を歪曲しているとの持論を展開した。」と報じている。

https://news.yahoo.co.jp/…/2319dadc9625b31447560030196f…

この戦争(ロシアは戦争とは言っていないが…)が始まって以来、核についての話題が度々出てきてはいる。

権力者たちの本音が何処にあるのかは知り得ないものの、ロシアとアメリカが世界の核弾頭のおよそ9割を所有している以上、ロシアが核に言及するその矛先は当然のこと、アメリカを意識しての言及であるだろうし、少しネット上で調べてみるだけでもロシアとアメリカ、二つの核大国についての関係性についての記事は幾つもヒットする。

https://business.nikkei.com/…/16/040400028/060800007

ウクライナとロシアが戦争状態にあるいま、この発言の表向きはロシア国民に向けてのものとはいえ、日本とアメリカとの関係を引き合いに出すことによって、西側諸国やそこに追随する国々や、かつてのソビエト連邦構成共和国の国々が、日本とアメリカとの関係を知りつつもそのことについては固く蓋をし、目を瞑ることによって、結果、世界の歴史認識は歪曲化し、それによってロシアとウクライナの関係しかり、世界のいまがあることについてを考えなければならない…とプーチンは言わんとしているのだと自分は理解している。

少なくともこのメッセージは単に日本に対する非難ではないと理解すべきだし、いまこの世界に生きる私たちは、既に歪曲した歴史認識の中にあるということ。いま私たちが事実だと認識していることの多くはこうした歪曲した認識のもとにある解釈であるということについては自分も概ね同意する。

自分にとってこの戦争と混乱は、自分の思考にとっての影響が大きい、ドイツの哲学者、フードリッヒ・ニーチェの考え方にあらためて触れるきっかになっている。

ニーチェが生きたその時代(19世紀半ばから終わり迄)はキリスト教が絶対な社会的道徳基盤であった。

にも関わらず、そのキリスト教道徳を批判してまでもニーチェが言わんとしていたこととは何か…。

現在進行形の混乱(戦争と言っても良いだろうけれど)における日本を含めた西側諸国の対応、メディアをつうじた一方的な報道を見聞きする度に、そこにニーチェの思考を重ね合わせてしまう自分がある。

ニーチェの考え方の根底にあるのは自発的な問いであると自分は考えている。

とりわけ自分の中で何が善で何が悪なのかについての規準が疑わしくなる何かしらのきっかけがなければ、本当の意味での善悪について疑問を持ったり考え始めることはできない。

日常的な価値基準に対して本当にそれが正しいのかどうか という問いが生まれること。

それは、既に常識化した価値基準の中にありながらもその中で何らかの違和感を感じることによって、そもそも「正しさとは何か」という問いが生じ、と同時に、私たち人間がすべて持って生まれたはずの感性が発動するのではないかと自分は思っている。

ニーチェは認識についてを語る上で、客観があってそれを主観が写し取るという主客一致という図式は背理であって、真なる倫理があるのではなく、私たち一人ひとりが倫理的な価値を解釈し創造している。重要なことは如何に良い解釈を行うことができるかにある。 と言っているのだけれど、それとはようするに、私たちは感性をつうじて価値を解釈し創造しているということ。

感性は芸術のためだけにあるのではないし、自らの内の感性の発動によってこの世にばらばらに散在する様々を自分の力で繋ぎ合わせることができるのだとすれば、まずはいま、日常的な価値基準によって、感性が占有独占されてしまっている状態を疑うと同時に、それを解放する必要があると自分は考える。

率直に言って、自分は今回の戦争しかり、国と国の戦争などには勝者も敗者も無く、いずれこの戦いが終結状態に至ったとしても、本質的な問題は何も解決することなく、それどころか、新たな戦争の種を蒔いただけに過ぎないと思っている。

もちろん、そんな理想論を持ち出してみても解決できないからこその戦争だという意見もあるだろうが、でもしかし、戦争という愚かな解決策を選択することによって次に何が生じるかを想像すれば、国と国の対立構造がより複雑化すればするほどに、武器が売れて儲かるだけのこと。人々が抱える悲しみが大きければ大きいほどに、その効果絶大になるだけなのだ…。

戦争とは何かという本質を一言で語るのはとても難しいけれど、もういい加減、人類はその愚かな呪縛からなんとしても脱しなくてはならない。

だからこそ、私達は広島と長崎に原爆が投下されたという事実をきっかけとした問いに蓋をせず、感性をつうじてその問に向き合わねばならないのではないか。

私たちは核が戦争の抑止力になっていることは否定出来ない現実の中にある。

この現実に目を瞑ることなく自分がそこと向き合った時はじめて、自らの内に問いが生じ、それと同時に感性が自らの内に発動することによって、本当の意味での善悪について疑問を持ったり考え始めることができるのだと自分は思う。

人間社会にとってはいまがそのための大きなきっかけなのだと思う。

U.S. President Barack Obama gives a speech next to Japanese Prime Minister Shinzo Abe at Hiroshima Peace Memorial Park in Hiroshima, western, Japan, Friday, May 27, 2016. Obama on Friday became the first sitting U.S. president to visit the site of the world’s first atomic bomb attack, bringing global attention both to survivors and to his unfulfilled vision of a world without nuclear weapons. The Atomic Bomb Dome is seen in the background. (Kimimasa Mayama/Pool Photo via AP)

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