「この世にとっての避けらない現実」

ベットの真ん中あたりが沈み込むのは簡易ベットだから仕方ないのか。24時間換気扇の音がどうにもうるさいのは何とかならないものか。

病院に悪口を言うつもりはないけれど、隅から隅まで無機質な材質に覆われていることにどうにも不自然さを感じずにはいられない自分なだけ。

24時間換気し続けることによって室内環境の健全さを維持されるこのシステムが自分にとっての寝不足の原因の一つではあっても、部屋の真ん中のベットに寝たままの、今日明日にでも息を引き取るかもしれない母にとっては既にそんなことはどうでも良いことなんだろうな。

病院という場所がこの世の最後の場所にふさわしいのかどうかを考える以前に、外気温も湿度も肌で感じることのないこの空間は、空調機器によって快適化された空間によってそんな思考を先ずもって遮ってしまう。

そんなことはどうでも良いの…ここはそんなこと考える場所ではないのよ…と。

この世を生きる上で避けられない現実というものがあるとしても、生きるということがこの世の現実をすべて受け入れなければならないということではないし、人がこの世をどう捉えどう生きるかを自分で考えることが、この世を生きるだめにもっとも必要な力であって、その力が衰えた先に用意されているのが病院だとしても、この社会が用意している病院という現実はその力を回復させる方向には向いていない…と思いながらイヤホンをとおして、危篤の母の横で聞く ゆらゆら帝国 のサウンドに心痺らす甲斐性なし。

母からは人生の最後をどんな空間でどうすごしたいのかと聞くこともなかったけれど、考えてみればそれは自分と母との関係に限ったことではなく、そうしたイメージの共有がないこの社会が病院という空間を生みだ出しているのだろうし、それこそが大多数の人々にとっての避けられない現実であるということは否定出来ない。

それを考えれば、そうしたこの世の現実をただ指を咥えたまま見て見ぬふりをするようでは、場と空間と美の関係を考えることが自分がこの世を生きるために選択した生き方であるとは言えないし、それを考えれば、自分がこの世に生きられるこの先の残り時間は、人が此の世から彼の世へと向かうための、人が人としてこの世を生きる最後にふさわしい場と空間をつくることに対して費やさねばならないなと思ったりする。

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