FlatFileSlash Warehouse Galleryでの展覧会が終了してから2週間。
展覧会の直前に実母が体調不良から検査入院し、末期の癌であることが判った。その後は一か月半程の検査と処置を行って、退院、自宅へと連れ帰った。
機械類全般が苦手な上に、緑内障によって視野が狭くなってしまっている母は、そもそもパソコンすら一度も使ったことは無く、スマホも扱えないので、自分がこうして母の病について書いていることも当然のことながら知る由もない。
そんな母の病をここへと持ち出すのは、先ごろ制作展示した作品には自分を取り巻く「いま・ここ」に生じる様々な関係性が多分に影響していて、母の病もそうした関係性の一つだと思っているからだけれど、このタイミングで母親が癌を宣告されたことによって、自分が常日頃、考え、感じることによって抱いてきた死生観をあらためて篩に掛けられていると感じると同時に、それについて話して来れなかった母との関係が、もしかすると自分を美術家たらしめる理由なのかもしれないと思ってもいる。
展覧会が始まる前から今回の制作展示では、あえて自分の死生観を作品の前面へと押し出すことによって、美術と美との関係を探りたいと考えていた。
この作品制作のタイトルとして、「人は何故、山に登るのか」としたのは、生と死と生命の関係といった、とかく思考概念に陥りがちなこの関係についてを現実世界へと引き寄せるために自分は何をすべきかと思ったことから。
人は何故、時に命を懸けてまで山に登ろうとするのだろうか、と思いながら、そもそも、死ぬか生きるかの緊張感は無いにしても、人は誰しも命を懸けてこの世のいまを生きていることからすれば、大切なことは命を懸けるかどうかではなく、人は何故、山に登るのか、であって、山に登るとは、この世の一生を生きることではないかと思う自分があった。
人は何故、この世の一生を生きるのか。
日本人の2人に1人が癌に罹り、3人に1人が癌で死亡すると言われているそうだ。
癌の研究解明が進むことによって、癌が不治の病とは言えなくなりつつあるものの、癌は何かが今までとは確実に違ってくるであろうことを予感させる。
その「何か」とは、「死に対する意識」ということになろうか。
自分が癌であることを知った母から、「何で癌になんてなってしまったのだろうね」と聞かれた自分は、
「ここまで生きてこれたからだと思うよ」と答えた。
「死はこの世の生の終わりではあっても、けっして不幸なことではないと自分は思っているけど」
…と、言おうかと思ったけれど、それは言えなかった。
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