「この胸苦しさとは如何なる感情で、それは何処から生じているのか。」

例えば、人の死に対して何らかの心の動きが生じること。

それは死に向き合った人が死というものに対して感受性を有しているということであり、人は外界の刺激や印象を感じ取ることができる働きである感受性によってこの世を感じ、そしてそこに感情が生じる…。

感受性には人それぞれ微妙な違いがあり、その違いを生じさせるものを感性と言っても間違いではないと思っているけれど、とりわけ、人にとっての外界であるこの世から如何なる感情が生じるかは、「美」を考える上でとても重要で、「美術」とはこれらとこの世との関係性を美をつうじて理解するためにあるのだと自分は理解している。

感情とは自分を中心とした物事に対して感じて起こる気持ちであり、感性によって呼び起こされるもの。

感情は「感性」を持った人にしか生じない。

感受性と感性は、自分以外が感じて起こっているであろう感情を、自分の感情として感じ取る能力でもあり、それは感情を共感する能力であるとも言える。

人は感受性と感性を共感能力として用いることによって、自分とは異なる人の中に起こる感情を理解し、たとえそこに違いが生じていようとも、共感能力の働きによってこの世を分かち合いながら生きることが出来るのだ。

人間の感情についての種類や分類の考え方には古代から様々あるけれど、日本人にとって最も聞き慣れた感情の分類は「喜怒哀楽怒」の五情であろうか。

自分はこうした感情の分類の論議にはさほどの興味はないものの、チベット仏教の指導者である、ダライ・ラマ14世が心理学者のポール・エクマン氏と協力して、人間の感情を「楽しみ・嫌気・悲しみ・恐れ・怒り」の5つの感情jを基本的な感情とした上で、合計46種類の感情に分類しているこのことは、単純にダライラマ14世のファンとしての興味ではあるもののとても解り易いと思っている。

The Ekmans’ Atlas of Emotions

http://atlasofemotions.com/

これによれば、

基本感情としてある5つうちの一つである、恐れ/Fear の感情は、震駭/terror、恐怖/horror、パニック/panic、自暴自棄/desperation、憂懼/dread、不安/anxiety、緊張感/nervousness、狼狽/terpidation という8種類の感情に分類される。

いままさに広がり続けている感染症によって、人々の不安が増大していることは明らかだが、感染症の広がりに対して恐れや恐怖を感じる人、狼狽したり震駭する人、パニック状態に陥り自暴自棄な状態になる人さえもいることからすれば、社会を覆い尽くさんばかりの重苦しいこの気配は、人間が抱く「恐れ」の感情がその中心にあることは間違いなさそうだ。

しかし現代社会は既にこうなる以前から長い間、領有権争いや民族問題から生じる様々な紛争をはじめ、人口増加問題や貧困問題、食料問題や自然環境問題などによって、恒常的に恐れ・悲しみ・嫌気・怒りの感情を抱えていたことは否定出来ない事実であり、ここにさらに追い打ちをかけるように広がる感染症が、そうした感情のことごとくを拡大増幅させてしまっていることによって、感情が画一的になってゆくのではないか…という気配を自分は強く感じている。

感情の画一的になるとは、感受性の違いが薄らいでゆくということでもあり、それはすなわち、感受性と感性によって獲得しうる共感能力が薄らいでゆくということであって、既に社会に渦巻く、恐れ・悲しみ・嫌気・怒りの感情が暴走するといった結果を招きかねないということ。

自分は、この感染症によって起こり得るこのことこそが、いずれ社会にもたらすであろう影響として極めて深刻で憂慮すべきことではないかと思うのだ。

人が人であるために感情は欠かすことのできない大切なものであることは言うまでもないこととは言え、一人ひとりがこの世をそれぞれに感じるところに感情が芽生えることからすれば、感じ方には個人差があるのが自然であって、この感じ方の違いこそが「私」という人格を形成する上で極めて重要。

そうしてつくられる「私」という人格が十分に形成され、機能する社会であることが、結果として社会の安定をもたらすものではないだろうか…。

感染症を如何に食い止めるかの手段はそれはそれとして大切なことではあるとは思うけれど、それと同時に、その先に築かれる社会が、人の感情を虐げることなく、感受性と感性が十分に機能する社会であるかどうか。

そのことを忘れてはならないと思っている。

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