「ガラパゴス」

人に頼んだ方が、楽に安く済ませることが出来るんじゃない?…と言われる度に、そうかもしれないな…と思いながらも、人に頼むことが嫌というよりは、はたして何が安いのか…何が楽なのかと考えてしまう自分は、結局のところ人に頼むことが出来ないまま自分でやることになる…というのがお決まりのパターン。

どうにも儲けが少ないのはこのパターンに嵌ってしまうからであることも解ってはいるけれど、だとしても、楽に安く済ませるというだけの理由で人に頼みたくないと思っている自分なのだから仕方ない…。

この数年の間に、自分が暮らすここ長野市でも10数階建てのマンションが次から次へとつくられるようになった。

こうした建築が法令に基づいた正当性ある建築計画であることは疑いないけれど、少し前にあったような建設に対する反対の動きは殆ど見られなくなっているし、こうした傾向が人々の意識の変化の現れであると仮定すれば、コミュニティにおける美的意識の変化が急速なスピードで起こっているためなのではないか…と考えている。

その変化をもたらす最も大きな要因は、建築解体件数の多さなのではないか…。

特に中心市街地においては常にどこかしらで建物が解体されている。

人と建物との関係によって育まれる意識は、人と人との間に育まれる意識よりも脆く儚い。

建物が無くなってしまったその瞬間に、建物との関係によって成立していた意識は急速に失われてゆく…。

建物や建物が立ち並ぶ町並みがそこに暮らす人々の意識に対して大きく影響を及ぼすことは言うまでもなく、そこで育まれる個々の意識がコミュニティーの様々な関係性に大きく影響をする。

とは言え、街並みや建物がコミュニティーにとって大切で重要だと思ってはいても、その重要性は、そこにある からこそで、近年の急速な街並みの変化は必ずや人の意識に対しても変化をもたらすはずだ。

10数階建てのマンションが次から次へとつくられるようになっていることに対して大した違和感も感じなくなっているその背景とでは、ドーナツ化現象と言われる市街地の過疎化、高齢化という傾向がほぼ終息したということを示している。

かつてここに生きた人々がいなくなっただけでは変わらなかったコミュニティーの有り様が、建物が無くなることによって、急速に変わりつつある。

そして、何よりも驚くのは高層ビルの着工から完成までのスピード。

日本の建築技術は世界でも群を抜いているけれど、このところの高層建築の完成までの凄まじいまでのスピードは、徹底した効率化によって実現されているのは間違いない。

このスピード感から想像すれば、おそらくそう遠くない間に高層建築はAI化が進むと同時にさらなる効率化が進み、建築現場に関わる人の数は格段に減ってゆくといった流れにあるのだと思う。

そしてこの効率化の流れは高層建築のみならず一般住宅建築にも波及するのは当然で、住宅はやがて工場でその殆どが生産されるようになっり、着工から完成まで数日なんて日が来るのもそう遠くはないのだと思う…。

徹底した効率化…それはまさに、楽に安く済ませることが出来るようになるための必須条件。

その意味からすれば、自分はまさにガラパゴス以上の絶滅危惧種的な存在だけれど、とは言え、建築におけるAI化はもはや避けられないことであろうことは理解出来るし、自分はそうなることによって社会が必ずしも悪くなるとも思ってもいない。というよりもむしろ、今後の人口減少は避けようのない現実であることからして、これからの建築は今までとはまったく異なる価値感を持たざるを得なくなるであろうし、そう考えれば、建築とは建物をつくるという意味ではなくなると同時に、今後は急速に 人にとっての価値とは何かに気付くための建築 という概念が模索されてゆくことになるだろう…。

解体される建物を見ながら、徹底した効率化とAI化の流れは、そのために必要な流れなのかもしれないと、期待も込めて思うことにしている。

7人、複数の立っている人の画像のようです

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