「レジリエンス:resilience」

人生、出たとこ勝負の自分ではあるけれど、時には悩むこともある。だけどこの人生、最後に悔んで終わりにしたくはないとずっと思っている。

自分がまだ高校生だった頃のこと。

所属していた部活がどうにも絶えられなくて逃げるように辞めてから、友達とバンド組んだり、それなりの高校生をしてはいたものの、何をするにもいま一つやる気になれないというか、力が入らないというか、悩みがあるような無いような…。漠然とした想いが常に自分から離れなかった。

普通に勉強して、自主早退は多かったけれど、そんな高校生時代が楽しかったかと聞かれたら、間違いなく楽しくなかったと答える。

いま考えれば、学校を辞めるという選択もあっただろうに、と思ったりもするけれど、学校を辞めるのは余程の不良行為でもして強制的に退学になるのものだと思っていたし、いわゆる不良というスタイルが格好良いとは思っていなかったし、不登校や自主退学が流行っていなかったと言ったら不謹慎かもしれないけれど、

いまにして思えば、部活を辞めると言った時に散々その理由を聞かれはしたものの、それも結局、監督やコーチ、担任や親には、間違った判断としてしか伝わらなかったこと、そのことがずっと引っかかっていたのだと思う。

とは言え、そんな気持ちを抱えたままでいることは望んではいなかったし、そんな高校生の自分が、あれやこれや考えた末に閃いたのが、芸大に行くという作戦を実行することだった。

というのは、その頃の自分にとっての主目的はあくまでも東京に行くことであって、芸大はそのための手段。そのために何をしなければならないのかも知らなかったし、それがどれほど困難な選択であるのかも理解していなかったけれど、そう言えば自分は美術が好きだった!ということに気が付いたその瞬間…それが自分にとってのほぼ唯一の可能性だと思っていた。

美術の先生は当時の自分のデッサン力では芸大はとても難しい…と思っていただろうけれど、そうも言わず色々とアドバイスしてくれたし、友人たちも、面白がって励ましてくれたりと、芸大合格の可能性は限りなく零に等しかったけれど、あの頃の霧が晴れてゆくようなあの感覚はいまもずっと自分の原点にある。

美術家を名のっているとは言え、そう言われた相手からすれば美術家だと言われて納得できる人はいないだろし、自分が何をしていてどうやってこの世を生きているのかを人に説明するのはとても厄介なことだけれど、本当はそうした認識を変えることができなければ、社会のあり方もまた変わらないのだと思う。

かつて自分が高校生だった頃に感じた、あの美術が持つ包容力というか、可能性というか、言葉には出来ないものであってもそれを受けとめる力を美術が持っていること。美術が持つその力を如何にして社会へと解放するのか…。

長いこと美術に関わってきて思うのは、社会にとっての美術の役割とはほぼそれに尽きると自分は思っている。

作品をつくること。作品を見せること。作品を買ってもらうこと…。

もちろんそれは美術家にとっての仕事でもあるけれど、それは手段であって目的はその先にある。

自分の美術に対する興味の殆どはそこへと向いていて、それについて考える時、人は誰しも。自分がかつて抱えていたような漠然とした想いのようなものを抱えているのは当然で、美術がそういった想いをすべて受けとめられるわけではないにしても、

描きたいと思ったなら描いてみればいい。見ていたいのなら見ていればいい。美術とはその気持ちを邪魔しないこと。

人が誰の制約も受けずに自分で自分のことについて決める力をどうやって育むのか。

美術がその力を育むのではない。

育むのは自分。

美術の役割とはそのことに気付かせること。

それに尽きると自分は思っている。

今週、6月10日木曜日から、

FlatFileSlash Warehouse Gallery(長野市)にて。

ナガノオルタナティブ レジリエンス

小池雅久 個展 「人は何故、山に登るのか」

が始まります。

https://www.facebook.com/masahisa.koike/posts/3830714207048203

今回のこの個展(制作)は、材料の搬入から作品の解体撤去まですべてをインスタレーション作品と位置付け、すべてを公開制作とし、自分と共に作品制作にサポート参加してくださる方を広く求めています。

ご興味ある方、御連絡ください。

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