こんな我が家にも一応はテレビというものはあって、そのテレビのスイッチを入れるのは主に朝の犬の散歩から戻ってから。いい加減な朝食をしながら、NHK・BSで放送されている世界のニュースをほぼ毎日観ている。
既に自分の情報入手先の殆どはインターネット経由で、テレビや新聞からの情報は殆どあてにすることがないけれど、テレビ情報は日本の国内メディアや世界の大手メディアから発せられる情報と自分がインターネットやSNSをつうじて選択したり見聞きする情報とを重ね合わせるためといった感じ。
そうするのは情報の正しさを知りたいからではなくて、情報を重ね合わせた時に現れる「ズレ」に興味あるから…というか、そのズレを生じさせているモノやコトこそが、目には見えない社会を捉えるためにはとても重要で、自分が生き方として選択している美術あるいはArtにとっての役割とは、例えば自分がそうやって捉えようとしている社会と如何に今後関係するかにあると思っている。
自分が情報について考える際、先ずもって前提として「正しい情報は無い」というのが基本的な理解。
そしてなにより、情報が人の感性を阻害する大きな要因でもあると思っていたところに加えてのここ数年のこの社会状況。
これについて考えれば、新型コロナ感染症に端を発する情報が人の感性をさらに著しく傷つけてしまったと考えるべきで、とりわけ人の感性との関りを外すことの出来ない美術あるいはArtがこの危機に対して殆ど機能できていないことについて、自らの行動を反省しつつ、今後の美術が向かうべき方向性についてを真摯に考えなければならないのは当然、
…と言うよりもむしろ、そうしなければ、美術あるいはArtは社会にとっての役割を何ら果たせないまま、このまま形骸化の一途を辿る他ないのだと思う。
日曜日。発達した低気圧によって荒れ模様の天気にも負けず、冬の日本海の荒波に船酔いの恐怖を想像しつつ、海からの横風にふらつきながら、富山県入善町 下山芸術の森 発電所美術館に向かった。目的はそこで開催されている「市川平(いちかわたいら)セルフコラボ展」
特殊照明家の市川平(いちかわ・たいら)は元彫刻家で大学時代の後輩。
学生時代の作品や活動は何度か目にはしていたものの、その後の活動については、自分が美術やArtの世界から急速に遠ざかりはじめていた時期にも重なって、彫刻家としての活動を直接観る機会の無いまま時は経ち、SNSをつうじて知った彼は、彫刻家では無くて特殊照明家・市川平を名のっていた。
彼と自分とが同じとは言わないものの、彼が彫刻家ではなく特殊照明家を名のることにしたことと、自分が彫刻家ではなく美術家を名のることにしたこととの間には何となく共通点があるのではないか…。
自分が「市川平(いちかわたいら)セルフコラボ展」を観に行きたいと思ったのは、彫刻家ではない特殊照明家である彼が何をどう感じているのかを、情報としてでは無く、彼が何かを感じたその場に行って自分が直接感じてみたいと思ったからだった。
下山芸術の森 発電所美術館は、取り壊される予定であった大正14年建設の水力発電所を入善町が北陸電力から譲り受けて美術館として再生したのだそうだ。
その場所で、自作の光源装置を用いて光と影の表情をつくり出されるインスタレーションはまさにこの場所に相応しい展示…だと思う。
がしかし、彼によってつくり出される光と影とは単に古い発電所とマッチするだけを狙ったノスタルジックなものでは無くて、いままさに輝きを発するその瞬間の光と何処か宇宙のはるか果てでずっと昔に輝いたであろう光とが一瞬だけ重なった時に生じるズレそのものだった。
人は誰も皆。過去と未来が重なるほんの一瞬のズレの中に生きている。
そのズレの中に何を見出すのかは、情報ではなくて自分次第。
自分が何をどう感じるか。
未完の大作の中で、混沌としたいまを生き抜くにはただその一点に自分の意識を集中させるしかないんだよな…と思っていた。
There are no facts, only interpretations.
事実などない,あるのは解釈だけ。
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