日頃、何かしらを「つくって、渡す」という他者とのコミュニケーションによって日々の生活の糧を得ている自分にとって、自分がつくったものを相手に手渡すことが出来た時に、それまで辿って来た道のりである過去といまとが一体化する感覚というものがある。
いっぽう、「(美術)作品をつくる」という行為は、同じ「つくる」ではあるものの、はたしてこれを渡すことが出来るのかどうかは怪しい…、そもそも自分にはこれを相手に手渡すつもりがあるのかと言えば、作品のその先に相手はいない、あるいは相手の存在を意識していない。
とすれば、作品をつくることによって、それまで辿って来た道のりでである過去といまとが一体化する感覚 があるのか ということについ言えば、それはある。
というよりもむしろ、作品をつくるという行為にはその感覚しか無い と言ってもいい。
自分が作品をつくる意味に於いては、他者という存在を必要としていないということでもあって、そう言うと、では、「どうして展覧会をするのですか?」…と思われるかもしれないけれど、実はこのことこそが美術が美術たり得る為のもっとも大切な部分だと自分は思っている。
かなりざっくり、強引に言ってしまうとすれば、美術は意思伝達手段ではないということ。
もちろんある程度は、そこから作家の意思や作品が内在する意味を読み取ることも出来はするだろうけれど、それを目的とするならば、小説や映画、演劇、あるいは伝達を目的としたデザイン…といった表現の方が優れている…。
この世は、望む望まない、好き嫌いに関わらず、ありとあらゆるものが混在することによって成立している。
そうしたありとあらゆるもの…生きとし生けるものすべてがこの世に在り続けているのはなぜか…。
自分はこの世を感じること、この世の全体について感じ、考えること、それが美術であって、この世に無数に存在している…というよりもむしろ、この世に充満しているもの、それこそが私たちが美と称しいる本質であって、それは私たちが五感によって捉えるもの…空気の質感や温度、光の感じ、様々な匂い、音…それらは皆「美」の本質にとても近いところにある。
そうしたものを私たちは有意識、無意識に関わらず常に感じ続けていて、だからこそ私たちの心身は常に揺れているし、その在り方に大きく影響を及ぼすのだと思う。
そうしたこの世に在りはするけれど捉えようのないものについて意識、認識することは、この世に生きる私たちにとってとても大切なこと。
もちろんそれをすべて美術であるとは言えないものの、少なくとも美術はそうした役割を担っていることは確かだと思うし、一枚の絵があるだけでも、そこにつくり出されるその空間性、時間性は変化する。
展覧会は、それぞれが辿って来た道のりでである過去といまとを一体化させる場でもあって、その場は作家では無くそこに立つそれぞれがつくりあげるもの。
その意味からして、作家は単に自分のためのその場をつくっているだけのこと。
それぞれの場が共有されることによって、つくり出される場。それはまさにこの世の在り方そのものなのだ と自分は思っている。
10月10日から11月9日までの期間
美術作品の制作と展示を行います。
私(小池マサヒサ)の作品制作する現場と完成する作品を見て頂くことをつうじて、それぞれにとってのいまについて考える機会として頂けたら嬉しく思います。
写真は、昨年のFlatFileSlash Warehouse Galleryでの制作風景
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