「杜」とは、この場所を傷めず、穢さず、大事に使わせてください と、人が森の神に誓って紐を張った場」
造園家・矢野智徳は映画「杜人」の中でそう語っていた。
縁あって、「杜人」の自主上映会を企画開催することになったおかげで、何回も繰り返し観ることが出来たと同時に、点が線になり、その線が繋がって関係性が紡ぐ網目になってゆく感覚を感じたこと、そしていまもその感覚が残っていることを思うと、きっとこれこそが前田監督がこの人を撮ると決めた理由であったのかもしれない。
水や風の流れが滞ることが樹木の健全性や自然全体の健全性、持続可能性の妨げになることは、環境に関わる人であれば少なからず理解していることだし、ましてや造園に関わる人であればそのことについて知らない人はまずいない。
その意味からすれば、矢野氏が行っていることは目新しいことは何もないし、誰でも理解出来ることだ。
理解よりも感じながら行動すること。
いま、社会はそれが出来ない…出来なくなってしまっている…。
それは何故か。
それは人と自然が共存し続けてゆくために最も大切なこと。
自然とは、生命とは、理解出来るものではなく、そこにあるということを感じることしか出来ない。
矢野氏の活動全体について、好きとか嫌いとかでは語れない。
とは言え、彼なりの美しさの伝え方に対して深く感銘を受けつつ自分は、生命と美が切り離されてしまっているいまをあらためて強く感じながら、所詮変えることは出来ないであろう自分なりの方法で、生きるために欠かすことのできない美の本質、関係性を感じるための場をつくり続けるしかないな…
そんなことを思わせる映画、「杜人」だった。
潰れるまでやってみればいい…
自分もそう思います。
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