それは中学校の2年生になった頃だったと思う。
答案用紙に答えを書き込みながら、自分はいったい何を解答しているのだろうか…という漠然とした想いが増すと同時に、答えを書き込むことに何とも言いようのない悶々さというか、苦しさを感じている自分があることに気付いた。
以来、その気持ちは試験中だけでなく、授業中にも感じるようになると同時に、この気持ちはおそらく誰とも共有出来ない、誰にも話すべきではないだろうな と思いつつ、唯一、そういった気持ちを美術の授業中には感じていないことが何故かどても不思議だと思ってはいた。
最後の学校を卒業してから一度も就職することなく、気が付けば定年退職という言葉がちらつく年齢に近付いている。
それだからなのか、この社会が何かしらの所属や分類といった要素を重要視している現実を身を持って感じてこれた気もしているけれど、それは言い換えば、社会という目には見えない現象の一つの側面を感じる為に有効な手立てであったということで、もちろん最初からそれを実感する為に就職しなかった訳ではないにしろ、自分がその場にあるという事実によって自分が直接何かを感じること それは、
かつて、答案用紙に解答を書き込む時に感じた苦しさとは違う、自分の経験によってこの世を感じながら生きているという実感、この世のリアリティーを感じながら生きているという実感であり、その実感とは一般的な認識とは多少異なりはすれども、自分が求める安心感とはそうしたものに近いと思いながら生きている。
とは言え、何らかの都合に過ぎなかったはずの分類認識がいつの間にか社会にとっての合意事項、共通認識となってしまっている例は数多く、例えばそれは、暮らしの中の何気ない会話の端々に、「普通は…」という言葉となって現れる。
この世に「普通」などない。
…
※投稿は、自分の思考を言語化することをつうじて、自分がいま何処にいて、次に何処へと向かうのかを考えるために行っているものです。
今回のこの投稿はとても長くなることが予想できますが、今回はここまで。
この続きはいつになるかわかりませんが、引き続き投稿はしようと思っています。
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