社会とは広範かつ複雑な現象ではあるものの、総じてこの世における人間の集合した営みを指す。
昨年に続いて開催した、およそ一か月間の作品制作は、自分の思考に深く潜る…というか、意識の有る無しに関わらず、積み重なった思考の積層を眺める、感じるための日々だった。
それは、厚く強固に積み重なってはいることは確かなものの厚みはない。
平面的な重なりというよりは、泥団子を作るように何層にも塗り重ねられた球体に近いのかもしれない…。
経験に伴う思考は白に近い赤から黒に近い赤。
想像に伴う思考は白に違い青から黒に近い青。
その表層は泥の斑に覆われている。
泥の中に潜るには若干の度胸が必要で、潜る前の緊張というか、期待というか。
泥の中にそっと手を入れた瞬間の、手から体全体が泥の中に沈んでゆくような、泥の奥へと引きずり込まれるような。
水とは明らかに異なる泥の抵抗と、いつか何処かで嗅いだことのある匂い
畦道
キリギリス。
心地よさにも似た、それでいてそれとは少し違う。それが痛みではなかったのか。
作品を解体し、昨日まで作品だったそれが土と木材へと戻ると共に、自分の青かった思考の積層が赤へと変化する。
それが白に近いか黒に近いかは、いまはまだわからない。
かつて、偶然観ることになったスクリーンに映る泥の河は、自分にはモノクロの白にしか映らなかった。
それから10年以上経過した異国のスラムで、ぬかるんだ道の端を歩く人の姿を見た瞬間に、自分の意識の表層にあの泥の河が立ち現れると同時に、あの白は黒に近かったのだと思う自分があった。
と同時に、圧倒的な違和感と共感できるものが見あたらないという不安感に覆われていた…。
美術が美に関する何らかの術であろうということについて異論はないものの、美そのものが何であるのかという難問についてを、社会は気付きながらも、いまもなお、おざなりにしている。
美が綺麗なものであるという捉え方が間違っているとは言えないものの、そうした認識がこの社会において様々な差別を助長しているのではないか。
というよりもむしろ、この社会は美は綺麗なものという認識に封じ込めることによって、社会にとっての矛盾を蔑ろにしてきているのではないのか。
かつて、この国が経験した「敗戦」という痛みが社会の根底にあったからこその戦後復興。
敗戦という痛みの感覚が人々に、社会の根底にあったからこそ、貧乏であれ、豊かであれ、そこには生命としての共通性があったのではないか。
勿論のこと、戦争を肯定する気などさらさらないけれど、、違和感や共感性の欠如や希薄さは、社会のいまにとって極めて大きなシグナルではないか。
さらに言えば、違和感や共感性の欠如を感じるが故に、自分との違いを社会にとっての「痛み」として認識できるのであって、人はこの痛みを、自らの痛みと重ね合わせることをつうじて、社会とは何たるかを知ることが出来るのと同時に、美の本質を感じるのではないか。
社会が抱える痛みが人々にとっての共通性として認識されていた時代が終わってから数十年。
いま、痛みは個人が抱えるものとしてのみ存在し、社会そのものは痛みを感じることの出来ない固い表層に覆われてしまっている。
コメントを残す