もはや美術館は勿論、ギャラリーであってもこういった作品の展示は出来ないだろうね…。
それは、自分でも薄々感じていたことではあったにしても、既にこの社会はArtであれ美術であれ、そうしたことを望んではいないということか…もはや社会にはこれが入り込む隙間は無くなってしまったんだよ…と言われたような気がした。
ふと、自分は美術館やギャラリーでの作品展示を望んでいるのだろうか、という漠然とした想いが自分の中にあるということに気付いてからというもの、その想いは次第に大きくなるばかりで、このままでは、作品制作はおろか、Artそのものが嫌になってしまうかもしれない…と思うようになっていた。
気が付けば身の回りは美術やArtばかり。それが自分の選択ではあったにしても、何とも言い様のない息苦しさを感じつつ、俗に、White cube とも呼ばれるギャラリーや美術館の外側にある、混沌とした世界が気になって仕方なかった。
いまにして思えば、若さと勢いのみで生きてきた20代から30代へと至る際の心の揺らぎではあったと思うけれど、あの頃、あの心の揺らぎに気付けなかったとしたら、その後の自分が美術家という生き方を選択することはなかったような気もする…。
Art、とりわけContemporary artとの出会いが、自分がこの世を生きる上で美術家という生き方を選ぶ大きなきっかけになったことは間違いない。
Artが嫌いにならないために、ギャラリーや美術館からあえて距離を置くという不器用な方法しか思いつかなかったものの、そのおかげか、様々な人々と関係することでしか生きる術はないと感じつつも、そうした関係性は常に、自分がArtをどう理解しているのか、その理解をもとにどう実践するのかこそが重要で、結局のところ、自分はArtによってこの世を生きているということを実感しながらの日々であったとも言える。
そうした日々と関係に於いて、美術家としてギャラリーや美術館で作品を展示しているかどうかを問われることは皆無だったし、自分自身それについては、ほぼ忘れていたに等しい…。
社会という広範かつ複雑な現象かつ、この世における人間の集合した営みの中に於いて、ギャラリーや美術館の社会的必要性、それが如何に機能しているのかについては、目には見えないこの社会を捉えるために、また、今後社会が目指す方向性について考えるために大切だとは思っているけれど、自分はそもそも、この大切さについて「気付く力」の育みこそが最も重要で、けっしてギャラリーや美術館が重要であるということではないと思っている。
ようするに、ギャラリーや美術館であれ、街中のカフェであれ、そこにあるArt作品が重要というよりは、その場、その作品をつうじてどういった力が育まれるかこそが重要であって、芸術やArtは崇めるためのの対象ではないということ。
芸術に反旗を翻すつもりはないにしろ、こんなことを考えている美術家の類いが、作品を制作し展示出来る隙間は本当にもう無くなってしまったのか…。
作品をつくるよりも先にすべきことがあるのかもな…。
泥の河を眺めながら、そんなことを思ったFlatFileSlash Warehouse Galleryでの一か月間だった。
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