ナガノオルタナティブ-レジリエンス

小池雅久展

Masahisa Koike  Solo Exhibition

「人は何故、山に登るのか」 

Why do people climb mountains?

 

 

途切れの無い時間と空間の中に生きている。

縄文と呼ばれる時代は遥か昔ではなく、私が感じているこの時間と空間の中にある。

川原に出かけ、私が腰を降ろしたその石に、彼らの誰かもまた同じように腰を降ろし、そこから山々を眺め、鳥の声を聞き、風を感じ、拾い上げた小石を川面に向かって投げ入れたかもしれない。

そこから見える風景を見ながら彼について想う時。

彼もまた私のことを想っているような気がする。

意識によって時間と空間を把握すること。

そこに科学的根拠は何も無くとも、私が思う という意識とは既に、この世に生れ出たという点からすれば、紛れもないこの世の現実。

この世に生まれでたばかりの意識はまだ弱く小さい。

時間と空間は絶えず広がり続けていて、現代に生きる私たちはそれについてを科学によって解明し、拡大し続ける時間と空間を把握しようと試みてはいるものの、広がり続ける時間と空間は未だ混沌としていて繋がりは弱く、人の意識を広がり続けるその外側へと向ければ向けるほどに疲弊する。

私たちが生きるこの地球は、球場の層が幾重にも積み重なった構造になっていて、外殻と呼ばれる地殻、その下にはアセノスフェアとマントル、さらに下にはマントルより粘性が低い液体の外殻、そして中心部は内核(コア)と呼ばれる個体であると考えられている。

私たちが見ること、触ることが出来るのは、地球の表面にあるほんの僅かでしかなく、この世を形づくるものすべては地球のその内側から生み出されてくる。意識もまた同じように。

目には見えない力、そしてこの世の全体を感じることによって把握しようとする意識は非科学的であるものの、この非科学的な意識のみが、こちら側であるこの世と向こう側であるあの世を繋ぐ唯一の手立てであり、広がり続ける混沌とした時間と空間を生きる私たちがけっして無くしてはならないこの世を生きる大きな力の源だと思っている。

2021年7月1日  美術家 小池雅久

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個展の打診があってから4年。

自分の日常に個展という時間を入れ込むことができないまま、開催時期の延期を幾度もお願いしてきた。

美術家という生き方は自分がこの世を生きるために選択した生き方であって、美術家の思考、判断を用いることによって自分の日常は支えられているとは言え、美術作品をつくることが自分の日常すべてを支えているということではない。

このことは自分にとってのみならず、美術とは何かということにも通じる大切な部分ではあるものの、社会に対して未だこれについてを十分に伝えることが出来ていないし、社会もまたこれについてを理解することが出来ていない。

町田氏から個展を打診された時から、展覧会にはまとまった時間が必要になるであろうことが容易に想像できてはいたものの、そこからその時間を自分の日常の中に入れ込むことは想像よりずっと困難なことだった。

すべてのリアクション:

124依田剛、Nobuko Saeki、他122人

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