10月20日 「Smokey Mountain」

足場を一端外して全体を眺める。

自分が美術やArtに出会った1980年代。

社会全体がバブル経済に浮かれた時代というイメージが強いものの、この時代を文化的視点から見るとすれば、コピーライティングと広告文化が花開き、雑誌が伝えるスポットに人々が群がるようになり、漫画やアニメが脱子供化すると共に、家庭用ゲーム機が登場する。

構造主義やポスト構造主義に関心が集まり、ポストモダンやニューアカデミズムといった言葉が広く世間に行き渡った時代…。

結果的には経済がこういった文化を後押しした感は否めないものの、いま・ここ…2020年代の始まりはあの時代からだったのかもしれないと思う。

もはや社会は、戦争を自分事として語る術を失ってしまった…。別の言い方をすれば、過去の出来事と自分がいる「いま、ここ」とを対比しない…というよりもむしろ、出来なくなってしまったし、そもそも、するつもりがない ということであって、平和にしろ、環境にしろ…そうした言葉はもはや、「痛み」を伴なっていないということなのかもしれない…。

「Smokey Mountain」

1998年の年末から1999年の2月まで…なので、もう随分と前のこと…フィリピンに滞在していたことがある。

私にとっては数回目、妻にとっては初めてのフィリピン。娘はまだ生まれてきていなかったその頃。

これから先、自分はどうするのか…という疑問をどこかで払拭したかった自分は、クライミングし過ぎで故障した腕のリハビリという無理やりな理由をつけ、フィリピンのクライマー仲間のお世話になりながら、クリスマスから年末年始はマニラで、年明け早々にマニラがあるルソン島の南西にあるパラワン諸島に移動し、島の北のはずれにあるエルニドとういう小さな町にしばらく滞在していた。

帰国した翌月…老朽化した木造賃貸平屋住宅を借り、目的はさておき、とにかくその建物の改修を始めることにした。それは結局のところ、「自分は所詮つくりながら…動きながらじゃないと生きられない…」という半ば開き直りにも近い決断だったけれど、あの2ヶ月あまりの短い、けれど濃い、フィリピン滞在が少なくとも自分が いま・ここ に至る上で極めて重要な2ヶ月だったと思っている。

フィリピンの首都マニラを含めたマニラ首都圏の人口は2千万人を超え、東京圏(3,700万人)、ジャカルタ、ソウル、デリーに次いで世界第5位の大都市圏を形成している。

その、マニラ首都圏のケソン(Quezon)から北へ1時間ほど…ルパンパンガコ地区に、パヤタス・ダンプサイト (Payatas Dumpsite) という広大な廃棄物処分場がある。

かつて1990年代半ばまで、メトロマニラ港湾部のトンド地区にあった、スモーキー・マウンテン (Smokey Mountain) と呼ばれる最終処分場が、貧困問題に関する国際的な批判対象となりフィリピン政府はここを強制的に閉鎖。

その結果、それまでスモーキー・マウンテンやその周辺で廃棄物を拾ってかろうじて生活できていた人々…スカベンジャー(scavenger)と呼ばれる人々の多くがパヤタス・ダンプサイト周辺へと移住を余儀なくされた。

首都圏から出る膨大な廃棄物は、パヤタスにまったく分別無しに集められ、そこには巨大なごみの山と谷が作られ、そのゴミをスカべンジャー達が仕分けする…。

周囲にはスカベンジャー達の簡素なバラック、彼らが集めた有価物(資源ゴミ)を買い取る業者のバラックが建ち並ぶ。こうして、かつてのスモーキー・マウンテンに勝るとも劣らないスラム…通称 スモーキー・バレー (Smokey Valley)が形成されることになったということだ。

ある日のこと。

クライマー仲間に誘われ、郊外のクライミングエリアに行くことになった。

その道すがら、それまでの街とは何処か異なる気配の街中に入ったかと思うと、バラックが立ち並んでいる光景が目に飛び込んできた。

そこはそれまでのフィリピンとは明らかに異なる場所。ヘドロでぬかるんだ道はそのまま山道へと続き、道の両側はどこまでもがゴミで覆われていた。

帰り道、夕日に照らされてうっすら赤く染まっている山のシルエットを背景に、あちらこちらから、煙が立ち昇っているのが見えた。

車がその山に近づくと、先ほどのあの煙がゴミの山のあちらこちらから立ち昇っているのが見える。

夕日に照らされた煙の中にかすみ佇む人。

そのゴミの中に埋もれるように建てられたバラックの屋根の下、しらじらとした蛍光灯の明かりに照らされたビリヤード台のある風景をいまも鮮明に思い出す。

私たちがそこを通過した一年後の2000年7月。

パヤタスのゴミ山が崩落し、約500軒のバラックが下敷きとなる事故が起こった。

この事故は、ごみ山の斜面が急すぎたうえに、台風の雨が一週間以上も降りつづいたことが原因であると考えられてはいるものの、公式に確認された死者は234名、だが実際の犠牲者は400名とも800名とも言われている。

この事故から4日後、一度は閉鎖されたパヤタスだったが、メトロ・マニラの廃棄物処分場の処理能力が危機的な状況になったため2001年半ばに再開された。

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