このところは寒い日続き。我が家の朝夕は未だ石油ストーブを焚いているほど。
ここ、長野市は基本的に日中の温度差が大きな地域ではあるけれど、冬の間の身体の緊張が解けたこの時期の寒さに順応するのは大変。
天候の変化もまた自然ではあると解ったつもりではいても、現代人の快適さの基準からすれば、もはや本当の自然は不快をもたらすものに近くなっていて、表向きでは自然は大切と言いながらもその実、自然はなるべく遠ざけようとしているのが現実だ。
現代に生きる我々はとかく、人間の暮らしの快適性を中心に据え、その周辺の人間の生存可能な条件を整えようとしがち。そうした捉え方や行動を環境として理解している。
しかし実のところ、人間にとっての暮らし全体や人間と共生する野生生物や景観もまた、互いの働きかけによって相互に生存条件を満たす状況をつくっているし、それが本当の自然であることを知ってはいても、そうした捉え方に於いては人間は脇役に過ぎず、それを環境であるとは思っていない.
けれど、そうした姿こそが本当で、それは環境ではなく風土と言った方が適切なのではないかと思っている。
環境に対する様々な問題が取り沙汰されるいま。地球温暖化問題は地球規模の最も深刻かつ重要な問題として認識されている。
思い出してみれば、この問題が多くの人々に共通の問題として認識され始めたのは今から四半世紀前の1997年、気候変動枠組条約に関する議定書…京都議定書が採択されてから。
地球温暖化の根拠は、国連の専門家パネル(IPCC)の学者たちが気候変動をシュミレーションしたプログラムから導き出した結果であり、人類が排出した2酸化炭素などの温室効果ガスによって地球が温暖化しているという、いわば「地球温暖化人為説」によって。
これを根拠に、温室効果ガスの排出を厳しく規制しなければ地球温暖化は加速し、干ばつや山火事、洪水、海面上昇による被害、巨大台風など大惨事が急増するとされた。
これによって、世界各国の政府も企業も一体となって、温室効果ガスの削減目標と温暖化対策を繰り広げつつ、この動きは更に加速している。
しかし、そもそも世界的、国際的 といった枠組みは、私たち一人ひとり等身大で認識できる範疇を大きく超えてしまっていて、世界的事実の確かめるには溢れかえる情報に頼る他ないのだけれど、そうした情報の真偽性は確かめようが無い。
だからと言って地球温暖化問題のすべてを否定するつもりはないけれど、少なくとも、世界的、国際的な取り組み… だからと言って、その取り組みが本当に問題の解決に繋がっているとは自分にはまったく思えない。
その理由について書き始めるとただでさえ長い投稿が延々と終わらなくなるので、それについてはまたの機会にしようと思うけれど、自然エネルギー策しかり、原発事故対応策しかり、脱炭素化しかり…
とかく、世界的だとか、国際的と表現されることは多いけれど、ことさら現代日本人はそうした事柄を闇雲に崇高なものとして理解しがちだと思う。
それだけならまだしも、世界的な取り組みだとか、国際的な理解の元…と言われることに対して盲目的に信じ、あたかもそれが社会共通のルールであるかの如く… といことがあまりにも多い…。
しかしそれは、日本以外が というだけのことだったり単に多数であるというだけであって、真実であるかどうかということではない。
おそらく誰もが、世界的、国際的とされるそれについてを等身大で感じてはいないし、自分には確かめようのないことに対して単に従っているに過ぎない自己責任回避…と言ったら言い過ぎか。
世界的や国際的…といった表現や認識は単なる幻想に過ぎないかもしれないということを現代に生きる私たち誰もが忘れるべきではないと思う…。
新型ウィルスの世界的蔓延とその対策、ウクライナ戦争をはじめ、国際紛争の諸々…によって、世界中が不安と混乱に覆われているかに感じがちだ。
しかし自分の意識を等身大に照らし合わせてみれば、良いこともあるし悪いこともある…変わったこともあるし変わらないこともある…それは昔も今もずっと変わらない。
それにも関わらす、テレビニュースからは不安と混乱の話題が絶えず聞こえてくる。
先日、NHK・BS1スペシャル・「良心を束ねて河と成す~医師・中村哲 73年の軌跡~」の再放送を観た。
風土とはこの世のリアリティー。
この世に満ち溢れるリアリティーに対して如何に自分を重ね合わせるか。
地球の気象は複雑な要因で変動している。
それこそが真実であって、人を動かす原動力なのだと思った。
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