三つ紐伐り(もつひもぎり)するので是非一緒に…と友人に誘われ、このところは愛犬というよりは相棒というか、RIKI-TRIBALの広報・営業を担当のRainと一緒に(RIKI-TRIBALはRainを現場に連れて行けない仕事はしたくない…という本音)荒山林業の林地へと出掛けた。
三つ紐伐りは日本古来から伝承された巨木を伐倒する ための技法で、幹の三方向から斧を入れて立木を倒すもの。三つ緒伐り、台切り・三つぎり…など呼称は様々あるそうだが、ここ最近は広く、三つ紐伐りという呼び方で認識されている。
斧で木を伐倒する時代は昭和初期まで続いていたものの、太平洋戦争を経てその後、急速なエンジンチェーンソーの普及と共に斧による立木の伐倒は特別な神事以外では殆ど行われなくなってしまった。
そんな巨木の古式伐倒技法である三つ紐伐りがこのところ、日本各地の極々限られた少数の森林関係者の間で注目され一部では実践されるようになっている。
自分は仕事がら…というか、空間デザインや建築的な仕事で、美術作品を制作する上でも木を使う機会はとても多い。
そこでは木の姿をしたままの丸太原木をそのまま使うこともあるし、製材して板や柱になったもの、時には木材の製材過程で出る廃材も素材として使うこともある。
けれどそれは、買ってきた素材を調理するのと同じで、素材そのものを自分が育てているのでも無いし収穫しているわけでもない…。
「木を伐る」…それは言い換えれば、自然によって育まれてきた命を人間の都合によって絶つということ。
私たちの殆どは、その役割を自分以外の他者に任せることによってこの社会が成り立っている…。
本来は、畑の草や道端の草を抜くこともまったくそれと同じ行為ではあるものの、私たち人間は基本的に自分たち人間の伸長・体重、持てる力の大きさや、見え方、感じ方を基準としてこの世を理解しようとしがちであるがゆえに、少しの力で抜ける草は躊躇なく抜くことが出来るとしても、森の木を大地から自分の力だけ引き抜くことは出来ないと思っているし、そもそもそんなことを考えようともしない…。
でもしかし、全ての人間がそんなことを考えもせず、どうにかしてそれが出来るようにしようと思わなかったら、狩猟採取の世界がいまもずっと続いているはずだし、…と言うか、そもそも人間なんで生き物そのものが存在していないということだと思う。
人間にとって不必要だと判断された草は、人の力で抜き取られるどころか、もはや除草剤を振り撒くことで根絶やしにも出来る。
人一人の力ではどうやっても持ち上げられないものがレバー一つ操れば簡単に持ち上げることが出来てしまう。
私たちはそうやってつくられた場所を都市と呼んでいるのだ。
このあたりに植えられた杉の木は樹齢48年から50年といったところか。
荒山林業の先代のまた先代が植えた杉林のところどころには広葉樹が残され、森には様々な下草が生えている。
今回、一本の木を三つ紐伐りで倒すまでに掛かった時間は1時間半ほど。
斧の扱いに慣れた人が真剣に作業すれば、おそらく1時間など掛からずに倒すことが出来るだ「ろうし、この程度の太さなら一日に10本以上でも倒すことだけなら可能かもしれない。
もちろん木を倒した後に枝を払ったり短く切り分ける作業もあるので、単純に何本という比較は出来ないけれど、チェーンソーを使えば、少なくとも斧の数十倍のスピードで作業が進むのは間違いない…。
私たちが生きるこの世界とは、人間一人が持てる力を如何にして増やすのか…と同時に、この世を形づくる生命の平等性を如何に希薄にするのか、そしてそのうえに生命に対する新たな順序付けによって成立している…。
自分の腕に着けた時計はどの時は図っているのか。森に響き渡る斧の音が刻むリズムと自分の時計は、はたしてどのくらいズレが生じているのだろうか…。
斧の重さが心地良かったけれど、今日の朝になって左の手のひらが赤く豆になっていて、そう言えば、暫く斧を握っていなかったことにいまになって気付いた。
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