森林=しんりん とは、広範囲にわたって樹木が密集した状態に加えて、樹木だけでなくそこに存在するそれ以外の生物および土壌を含めた総体。
しかしそれは仏教が言う、「自ら然る」という意味を解する、人間の作為のない「そのまま」の在り方 ということではなく、今日、私たちが森林と言う時のそれは環境であり、環境とはあくまでも人間の周囲として在る、相互に関係しあいながら直接的、間接的に影響を与え合う状態や世界のこと。
その森林についてこのところ、森林行政をはじめ森林にかかわる各種団体が語る際には、森林(もり)と表記することが多い。
先週土曜日には、自分もメンバーとして加わっている、北アルプス広葉樹活用研究会も、
「信州の森林(もり)を育てよう、使おう!」~北アルプスの広葉樹から見えてきたもの~
と題してトークイベントを開催した。
確かに、森林=しんりん という読みは専門的で学術的なイメージが強いし、森林(もり)という読み方によってそうしたイメージを緩和させるとは思うけれど、そもそもなぜ、そんなことが必要なのかと言えば、それは森林という環境がやばい状態にあるからに他ならない…。
日本の森林は約2,500万ha。そのうち約5割が天然林、約4割が人工林、残りが無立木地(樹木の密集度が低く森林と判断できない場所…竹林など)
日本の国土面積全体に占める森林面積は約66%。これを森林率と呼び、森林率 約7割の日本は世界有数の森林大国と言えはするものの、そのいっぽう、令和3年(2021年)の木材自給率は41.1%。カナダやアメリカを中心に、EU、ロシアなどの国からの輸入に頼っている世界有数の木材輸入国という矛盾を抱えている。
森林から生じる問題…と聞いて多くの人が先ず最初に思い浮かべるのが花粉症問題か。
しかし、花粉症の主要な原因が杉や檜が発する花粉だとしても、見方を変えれば、それは私たちの暮らしの場所から遠く離れた森林と私たちとを最も強く繋ぐ存在であるとも言える…。
そう考えれば、この問題の本質は花粉ではなく花粉をもたらす森林と人間との関係にこそあって、森林率と自給率における矛盾と花粉症との間には何らかの繋がりがあるということに気付くことが出来るはずで、私たちはいま、こうした目には見えない関係性に対して如何に意識を向けるかがことさら重要なのではではないだろうか。
樹木の生い茂った所は「森」=もりであり、森林とはこの森に加えて、樹木だけでなくそこに存在するそれ以外の生物および土壌を含めた総体を示すことからすれば、自分は「森林(もり)」と読むその「もり」とは「杜」でもあって、映画「杜人(もりびと)〜環境再生医 矢野智徳の挑戦」の中で、矢野智徳さんが言っていた、「杜」とはこの場所を 傷めず、穢さず、大切に使わせてくださいと人が森の神に誓って紐を張った場所…という捉え方が腑に落ちる。
森の神に誓って…というと、宗教っぽく聞こえるかもしれないけれど、それというのは現代社会と宗教との間の様々な歪んだ関係ゆえに生じる表面的なイメージであるだけで、私たち一人ひとりの心の内に生じる正直な気持ちとしては、森に対して人智を超える何らかの気配を感じるそのことは、宗教とは異なる、人間としてあって当然の感覚だと自分は思っている。
と言うよりもむしろ、その感覚に蓋をするこの社会の在り方こそが問題であって、自分は森林問題解決のためには先ず何よりも、そうした感覚を人間が取り戻すことこそが最も重要であって、究極、森林問題とは人間が森林をどうすべきかと言う問題ではないと思ってもいる…。
そんな中、「信州の森林(もり)を育てよう、使おう!」~北アルプスの広葉樹から見えてきたもの~ と題したトークイベントは自分が当初期待していた以上の有意義な集まりとなりました。
様々な意見が交わされる中、自分が感じた感想は、結局のところ、森林が「もり」であるとして、その「もり」が「杜」であるいう感覚を私たち人間が取り戻せた時、花粉症なんて症状が社会から無くなるのだろうな…そんなことを終始感じながらのトークイベントでした。
近いうちに次回の開催を是非検討したいと思っています。
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