森のはずれ

半月ほど前、数年ぶりに友人宅を訪れるために幹線道路から脇道に入った瞬間、あれっ、曲がる道を間違えたかな、と思うほどにあたりの様子が一変していた。

かつて武蔵野の林を切り開いてつくられたのであろう広く平らな畑は無くなり、その代わりに、殆どが同じデザインの、白い一戸建て住宅が友人宅の入り口のすぐ目前まで何軒も立ち並んでいる。

その時、自分の中には残念な気持ちが湧き起こっていたのは確かではあったけれど、その残念さ とはつまり、自分の中にあった過去のイメージと現在の風景とが突然に重ね合わさったがゆえに生じた感情の歪みというか、焦点が合っていない感情と言ったら良いのか、あくまでもそれは自分の過去の経験や自分の思考性に基づいた突発的かつ主観的な感情だ。

とは言え、そうした感情が間違いであると言うことではなく、そもそも人が抱く感情は実に不確かで曖昧であるということ。ほんの少しの経験、状況の違い、見え方、考え方の違いによって感情は大きく揺れ動く。

人の心の内で起こる感情の微細な揺れ。

この揺れを自分以外の他者が物理的に捉えることは出来ない…のかもしれないけれど、例えば、誰もが少なからず経験しているであろう 「気が合う」 といったそれとはその微細な揺れが重なり合い、同調した時に起こるのではないだろうか。

それは、たまたま、偶然に起こることなのだろうか。

それが仮に、偶然ではなく、人それぞれの微細な揺れを感じ合うための手段があるとしたら、この社会はもっと穏やかに、もっと美しくなるのではないだろうか。

気の合う状態…は、人と人との間に限ったことではないと思う。

一昨日、母校、武蔵野美術大学の美術館・図書館で、「若林奮 森のはずれ」という展覧会が始まり、かつて若林奮のアシスタントをしていた自分と、当時、画廊で若林奮の担当だった妻と一緒にオープニングレセプションへと出かけた。

若林奮がこの世を去ってから20年。

今回の展覧会のタイトルにもなっている、「森のはずれ」は、若林が同大学の教員だった時代に大学の研究室内で制作され、その後発表された作品。

展覧会には、この作品が発表された後の作品を中心に、自分のアシスタント時代とも重なる 1980年代後半から90年代の作品が多数展示されている。

自分が美術家という生き方を選択することになったその背景には間違いなく若林奮がある…。

その作品と人から多大な影響を受けていることを隠すつもりはないし、いまも変わらず憧れではあるけれど、自分にとって若林とは単なる憧れではなく自分にとっての思考の原点。

自分もまた若林と同じく美術家としてこの世を生きる以上、作家として常に対等でありたいと思っている。

今回の展覧会であらためて若林の作品とは何であるのかを感じることが出来た気がしたと同時に、この社会にとって美術が、Artが果たす役割とは何であるのか…について考えることが出来た。

「自分が自然の一部であることを確実に知りたいと考えていた」 と、若林が語っていたそのとおり、

作品と自然との境界線が、時に現れたり、消えたり…。

かつて、アトリエで未完成の作品を前にじっと立ち尽くしていた若林の後ろ姿を思い出しつつ、若林が知ろうとしたであろうその森と、自分がここ最近、森に入る度に感じるそれとを重ね感じていた。

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