「命令と服従」


 
 
「作品つくる」 とは何か については、いまもずっと考え続けていることではあるけれど、おそらくこの一生に於いては答えに辿り着けないような気はしている…。
この社会には、プロフェッショナルだとか、専門家だとか…という分類があるが、自分がいま、美術家を名のっているとは言え、プロフェッショナルと語るほどの経歴も成績もないし専門家と言えるほどの幅広い知識も持ち合わせてはいない。
自分の日常は、何かしらを 「つくる」 ことに関係し、それによって経済は支えられているけれど、そうしたことが作品をつくることかと問われてもそうだとは言えない。
 
自己管理が実にいい加減な自分にとって、その日々の思考の断片を保存するための書庫として利用しているこのAI機能(SNS)には、過去の今日の日付の投稿が出てくることがあるのだけれど、時折、過去の言動の責任、と言うか、あなたは過去にこう言っていますが…と責められているような気がすることがある。
人間の思考なんてものは実にいい加減で曖昧なものであるにも関わらず、この社会システムは日々その思考そのものの責任を問う方向へと向かっている気がしてならない。
 
「作品をつくる」 とは勿論、美術家のみの行為ではないけれど、それはある意味、自分の現時点の思考を世間に向かって曝け出す行為と言えないこともないが、だからと言って作品の質は常に右肩上がりに成長するものでは無いし、社会的に責任が生じる行為でもない。
 
ここに内在する重要な意味として「表現の自由性」があるのだが、近年、この表現の自由性は著しく侵害されていると自分は感じていて、その一つの表れがSNSを基盤としたAI機能の進化とその蔓延だ。
 
とは言え、自分は何もこのAI機能そものが表現の自由を奪っていると思っているのではない。
そうでは無くて、表現の自由性への侵害は、こうしたシステムに何ら疑問を感じることもなく、与えられたシステムに迎合してしまいがちな現代の社会性にあるということ。

20世紀初頭のドイツの社会学者、マックス・ウェーバーが、「社会学の基礎概念」の中で、「支配とは、一定の内容をもつ命令に、特定の人々が服従するチャンスのことを言うべきである」と語っていることに照らし、「表現自由性」とその侵害について考えれば、そこには「支配」の構造が多分に影響していることに気付く。
 
マックス・ウェーバーはまた、『支配者』の明示された意思(『命令』)と、自分たちの行為の格率としたかのように実行する(『服従』)との関係について、「支配の社会学」の中で述べているが、それは服従することに対する利害関心があるということであり、これが示すことは「支配」とは「権力」が用いる概念であるということでもあって、ようするに権力にとって表現の自由性は、支配の構造を侵害する危険性があるもの…と考えることが出来る。
自分は基本的に権力を悪として捉えてはいないものの、権力が支配構造の元に肥大化するといった構造は表現者の一人として無視は出来ないことであり、この社会に歪をもたらしている根底にあるものだと考えている。
 
権力と言うと、国家を思い浮かべるかもしれないが、もはやこの社会における権力は、社会の至るところに浸透していて、国家だけがそれを行使しているのではないものの、権力がこの世を生きようとする私たちが持つ生命力を阻害しているのは間違いないと自分は思っている。
そうした中で、支配と服従が形づくる目には見えない関係性を捉え、それを如何にして、作品つくることをつうじて表現するかは辛くはあるものの、自分にとってのこの世の生きる唯一の術だといまは思っている。

DSC_2908

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です