「普通」

1945年8月15日を敗北と捉えるか終戦と捉えるかは、この国に生きる人々が、いま・ここで起こる様々から何を想起するかとっての重要な起点であり、延いてはこの捉え方の違いがこの社会における人の考え方の違いにも繋がっていると思っている。

自分がこの社会の生き方として選択している美術家という生き方とは何であるのかについてを客観論としてWiki的に説明をすることは出来ても、美術家、Artsitとしての表現には当然のこと違いがあるわけで、その観点からすれば、Artistの表現をつうじて人それぞれのこの社会に対する捉え方についての違いを感じることが出来る…という捉え方もあながち間違いであるとは言えない。

ただ、そうした人々の社会に対する捉え方をあえて無理やり大別すると二つの方向性があり、それを踏まえて時代を遡りながら考えて行くと、いまへと至る最初の分岐点として現れるのは1945年のあの日ではないかと自分は考えている。

もちろん、その日から数えて78年目のいま。自分は直接その日を生きていないけれど、少なくとも誰もが意識のどこかで感じていたであろう戦後を自分もまた感じていたし、その戦後のこの国の選択の上に今の自分があることは揺るぎない事実であって、この国と美術・Artの関係にしてもあの日を起点に始まったもの…或いはそこと必ず、何らかによって関連付けられることによって成立している。

文章と会話ではその内容に若干の違いが生じるものだけれど、会話は相手との関係性によって成立することからすれば、相手によって話し方だとか使う語句が変化するわけで、何気ない会話ほど自分自身の心理が如実に表れるものだ。

だから言って会話の内容を推し量ったりしては会話が楽しくなくなってしまうとは思うけれど、自分がそんな何気ない会話の中で意識していることがあるとすれば、それは、「普通は…」というもの言いには注意する…ということぐらいか。

それは美術家だからということではなくて、普通は というもの言いには、自分はどう考えるよりも優先される社会調和の条件が暗に示されているような気がするから…。

単なる会話の流れからくる一言、深い意味のない単なる一言だとしても、その一言が結果的にその時代の「正義」の元となり、その時代の方向性を形づくってゆく気がする。

「普通」 それは誰にとって、いつの時代にとっての普通なのか。

その普通はこれからもずっと普通のまま続くのか。

自分はあの日、1945年8月15日は、それまでの普通が敗北した日。

あの日から、普通なんてものは無くなってしまったはずなのに…と思っている。

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