今日は1日、病院にいなければならない日。
とは言っても、自分はじっと待つだけなのだが…。
10年ほど前に自分が入院した時に、2年前に母が亡くなるまで入院していた時にも感じていたことだけれど、病院とは何故こうも無機質な雰囲気に満たされてしまっているのだろうかと思う。
確かに、軽度であれ重篤であれ、病を抱えている人が多数いるわけだし、院内感染という観点からすれば、衛生に対する配慮は当然のこと必要であることはもちろんのこと理解出来る。
でもしかし、患者本人のみならず、家族や友人、その他すべての人々に対する心や精神への配慮…と言えば良いのか、そこは病人やその家族と最も多く接する看護師、医師、病院に勤務する人に任せているのかもしれないけれど、病院の仕事を想像するに、日々膨大な仕事量と緊張が続くその中では、病院での対応はマニュアル化するしかないであろうし、そうすることによって人為的なミスを防ぐことが出来るのだと思う。
でも、そうであるなら…、
病院をもう少し大きな全体という場として考えれば、視覚的な、建築的な、美的な要素が、医師や看護師の負担を少しでも減らすことが出来るかもしれないし、そう考えれば、建築やデザイン、Artが医療という全体にとっては同等に大切なのではないか。
そうしてつくられる、生と死に向き合える全体という場 こそが、人が他者の痛みを理解するには極めて大切で、さらに言えば、そうした場を成立させることこそが社会全体を、自然をも含めたこの世の調和を保つ要となるのだと思う。
こういったことは、医療のみならず社会の至るところ…というよりもむしろ、社会のすべてに於いて重要なはずで、ここ最近は教育への関心の高まりと同時に、学校建築に対して人々が期待する機運もあってか、いわゆる軍隊の兵舎のような建築とな異なる、教育理念が建築に反映された学校も見受けられるようになって来てはいるのだが…。
気が付けば自分がこの世に生きられるであろ時間は、小学生のそれと比較すればはるかに短い。
そんな自分が今から何がしたいとか、何が出来るのか という具体的なイメージは殆ど持っていないけれど、生と死に向き合える全体とは何かと考える時に、そこに関係する場づくりがしてみたい…と思うことはある。
病院に訪れると、いつもそうしたことを考えてしまうものの、それはきっと想像よりもずっと難しいことだろうけれど…。
自分の興味…と言うと少々語弊が生じるかもしれないけれど、自分の興味は、大きく言えば、「生と死」、もう少し具体的に言えば、人の抱える痛み、さらには、人以外の自然も含め、この世が抱える痛みとは何なのかということについて。
自分が抱える痛みと他者が抱えるその痛みとの違いは何なのか…他者の痛みを自分はどうやって想像すれば良いのか…痛みは生と死に対してどう関係しているか…。
人々の痛みの理解こそがこの世から無益な暴力や破壊を無くす唯一の手立てとなると自分は思っているのだが、でも、痛みがそこにあることがわかっているはずなのに、あたかもそれが無かったかのように欺くことが出来てしまう様々なしくみ、痛みを蔑ろにする社会のありかたに憤りというか絶望感すら感じはするものの、この社会はむしろそうした怒りや絶望感の矛先を、そうした感情を抱えるその人の責任。痛みも怒りも絶望も自分自身へと向けるしかなくなってしまっているのだ。
何も別に、綺麗ごとが言いたいのでは無い。
ただ、目の前の屋上の姿と遠くに見える山々の対比があまりにシュール過ぎて…。
でも、何故なのか…という疑問を抱くことはけっして間違いではないと思える自分は救われているな…と思う。
まぁ、美術家なんで所詮、そうすることでしか生きられない…ということなのだけれど。
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