「発達障害」

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自分が最も好きな写真。

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ここに写っている子供は勿論のこと、この写真の中に、人が社会に何を望んでいるのかが写りこんでいる気がしていて。

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自分のパソコンにはいつも彼が現れる…。

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子供時代とは言え、少なくとも物事の意味を探ることが出来るようになり始めた頃のこと。

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父は、言わば、突然にぶち切れる性格…気性と言えば良いのか…、自分は理不尽に怒鳴るそんな父が大嫌いで、そうしたことが起こる度に、その理不尽さをかわすにはどうすれば良いのかを考えるようになっていた。

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いま考えてみると、それは父だけではなく、普段はおとなしく声の小さな母にもその傾向があった気もするのだが、それはきっと、父の理不尽さに対抗出来るだけの術を母は持つことが出来なかったからかもしれないと思う…。

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ある日、そんな父から、お前と話すのは疲れるから嫌だ…と言われた記憶があって、その頃からか、父と母との会話は必要最低限しかしなくなっていった気がする。

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自分の性格形成に於いて、父と母との関係性が多分に影響していることは間違いないだろうけれど、他者からの見た目や行動に反し、基本的には極めて内向的な気質であることは十分に自覚している。

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俗な言い方をすれば根暗であり、出来ることなら人となるべく距離を置いていたい、沸き起こる問題に対して気の済むまで考えていたい…。

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そんな自分であることを強く意識するのが思春期なのだろうけれど、自分の場合は高校生の時期がそこと重なっていて、どこか自分を隠しながら生きるのが辛いと思いながらも、毎日、ここから抜け出すにはどうすれば良いかばかり考えていた…。

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そんなある日、自分の中に閃いたのが美術…その頃はまだArtではなくて美術。

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その時の自分にとっては美術とは何であるかなんてことはまったくどうでも良いことで、とにかくそこにさえ向かえば後はどうにかなる…という根拠のない自信となったのだ。

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そしてそれが いま へと自分を向かわせてもいるのだけれど、いまもこうして、自分の気質を否定せず何とか生きることが出来ていることからすれば、美術には恩があると思っているし、誰かに言われたとかでは無いにしても、いまの自分のままでいい…と思わせてくれたのが美術だと思っている。

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だからこそ、美術とは何か は自分にとって極めて重要で、美術を生き方として選択するということはどういったことかについて自分は考えなければならないと思うのだ。

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東京に暮らしている頃だからもう20年ぐらい前。

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「小池君さぁ、生きづらさを感じているでしょ?」 と、近所の気功治療院の先生に言われたことがある。それはどうやら、発達障害について興味を持って色々と調べているうちに、先生自身が発達障害だと自覚するようになったとのことで、どうも小池もそうに違いない…と思ったそうだった。

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そう言われた自分は別に何とも思わなかったけれど、周囲の人の方が、人に対して傷害があるとか言ってはいけない…とかだったり、色々な意見もあって、なるほど、これは面白そうだと自分にとっての新たなテーマが見つかったぐらいにしか思わなかった。

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あれから随分と時が経ち、引きこもりだの不登校だのと言った話題に事欠かなくなってしまっているけれど、それは周囲がそうしたことを話題にして盛り上がっているだけのことで、当の本人からすれば周囲の声などどうでも良いことではないか。

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もちろん、そういったことに対する様々な取りくみを否定したいのではない。

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国や行政ではできないことがあって、それを誰かがやらねばならないことも十分に理解出来る。

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ただし、そこでは、何が、誰が、優先されるべきなのかということは大切。

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結局のところ、自分が何を考えているのかどうか気付けるか…こそが重要であって、不登校や引きこもりに対して何をすべきかなんてことを周辺が騒ぎたてることではないと正直なところ自分は思っている。

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何にしても、子供に限らず、人が気付くための邪魔だけはしない…それぐらいしか出来ないのではないか。

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何か問題があるとすれば、既成概念を押し付けようとする社会こそが問題であって、そうした既成概念を普通だと称して強制するこの社会の在り方こそが最大の問題だと思っている。

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