石油が植物や生物の化石が起源だとする有機起源説に対して、マグマからできたとする説を無機起源説というのだそうだ。
この説については、随分と前…東日本大震災が起こるよりも前に知って、かなり信憑性がある説だと思ってはいたものの、脱炭素化という社会的潮流にも押され、記憶の隅に追いやられてしまっていたところ、最近になってSNS上でそれについて語っているのを知って、久しぶりにこの説のことを思い出した。
マグマからできたとする無機起源説…それがおそらく真実に近いのだろうな…と思ってはいる。
しかし、自分は石油が有機起源であるか無機起源であるかということよりもむしろ、人類とエネルギーとの関係の在り方の方がより重要だと思っていて、正直言ってそんなことよりも先に向き合わねばならない問題があるはずだ…と思っている。
その意味からすれば、向き合うべき問題をおざなりにしたまま繰り広げられる、脱炭素化を理由にした再生可能エネルギー推進策、SDGs…その他諸々に対して自分はまったく興味がない。
いまから半世紀前。石油はあと30年から50年で無くなってしまう…と学校で教えられていた1970年代の子供たちにとって、石油とは限りある資源というよりも、もうすぐ無くなってしまうものであった。にも関わらず、そう聞いた子供たちはそれが深刻なことだと感じてはいなかったのだ。
それはようするに、世間にはそういった気配が無かったということであり、逆に、どんなに大切に使ったとしても無くなってしまうものであるとすれば、自分たちが生きるこれからの未来には、石油に代わるエネルギーが必要だと暗に印象付けられていたということであった気がする…。
日本で最初の原子力発電が行われた1963年に生まれた自分をはじめ、この時代の子供たちは、そういった雰囲気に覆われた社会の中で育ってきたということであり、子供たちはもちろんのこと、大多数の日本人にとっては原子力への期待感が圧倒的に高まった時代であったことからすれば、自分たち世代とはまさに アトムの子供たち。
その子供たちの成長と日本の原子力の成長は重なり合いながら、結果的には2011年の福島第一発電所での大事故が起こるまでの間、日本国内に最大54基もの原子力発電所が稼働するに至ったのだ。
もちろん、自分たち世代に責任があるということでは無いけれど、少なくとも、そういった時代、まさに原子力時代と呼ぶにふさわしい時代の中で育った自分としては、福島第一発電所の事故が起きるまでの間、例えば、チェルノブイリ原発の事故であったり、スリーマイル島原発事故…あったり、いくらでもこの社会のその先を想像出来たはずなのに、その想像力を封印し…見ようと思えばいくらでも見えるものであったはずなのに…。見て見ぬふりをすることによって、何事も無かったかのように成立した社会の中で生きてきたという気持ちが拭えない…。
石油が植物や生物の化石が起源であろうがマグマからできたものであろうが、いずれにしてもそれは、地球から生まれたものであることに変わりない。
もしも石油がマグマ由来であるとすれば、石油は地球があり続ける限り生み出される資源ということにもなり得るということなのだろうけれど、少なくとも人類はそれを使えるまでに成長していない。
※画像は、ふくしまミエルカPROJECT よりお借りしました。
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