その真意は掴みきれなかったものの、自分へと発せられた言葉の中に、美術家であること…それこそが問題だと聞き取れる言葉があった。
自分がこの世の生き方として選択したそのことが、物事の進行を遅くする一つの原因になり得ることは正直言って否定出来ない…。
しかし、それは美術家であることが問題であるということではなくて関係性の問題であり、言葉の使い方としての問題であると思った。
とはいえ、そのこと…、自分が美術家であることが原因で何らかを傷付けることになってしまっているならば、反省もするし謝るけれど、だとしても美術家をやめるつもりはない…、というか、もはやそれは無理なのだ…。
まぁ、それはそれとして、言葉とは何か。
そのことと美術とは何かという疑問の先にある答えは限りなく近い…と思っている。
自分は国という概念に対して多くの疑問を抱いているけれど、その国についてを民族という捉え方に重ね合わせて考えた場合、そもそも民族とは言語を共にする集団を示すものであったはずが、もはや言語が同じからと言っても民族は異なることもあるし、元は同じ民族が別の言語を用いていることもある。
民族がそのまま国として成立していることは殆どなくなってしまったのは、民族という概念は既に国の中に組み込まれてしまったか、あるいは分断されてしまっているということだ。
そうした民族にとって、言語は極めて重要な意味を持つことについては、様々な調査や研究があるけれど、そもそも自分が使用している言語である日本語一つとっても、既に100年前の文献に書かれている言葉すら読解出来ないものであることを思えば、日本語を使ってコミュニケーションしているとは言っても、それは極々限られた時代の、限られた人々との間だけでしか成立しないコミュニケーションということでもある。
言い方を変えれば、言葉は人と人とを繋ぐものであると同時に、時間的にも空間的にも人を分かつものになってしまっているし、使い方によっては人を傷つけるとても恐ろしい武器にもなり得ることは,政治が用いる言葉について思い出せば良くわかる…。
世界にはたくさんの国があり、様々な民族、様々な人がいて、それぞれが異なる言語を使っていることからすれば、確かに、皆が同じ言語を使うことが出来れば、もっとスムーズにコミュニケーション出来ると考えることも理解は出来る。
しかし、異なる言語の習得が異なる言語を使う人々とのコミュにケーションを可能にするということを否定こそしないまでも、一つの言語には奥行があって、それはどの言語であろうと同じ。
そこには、その言語の元となる 何か があって、その何かを自分以外に伝えるために言葉が出来たであろうことからすれば、その言葉には当然のこと、過去の記憶が含まれているということではないのか。
自分がその言葉を用いて考えたり、話したりするということは、自分へと繋がる過去の人々の記憶を使っているということでもあり、その記憶の何処かには必ず、自分は見ることのでない過去の時間、過去の繋がりが含まれているということなのだと思う。
ところが、南米、アマゾン川の支流の奥深くに暮らす ピダハン と呼ばれる少数民族が用いる言語形態は、私たちが用いる言語とはまったく異なる特殊な言語形態を持っているのだそうだ。
その言語には数がない。だから物を数えたり計算をしたりということはしない。
「すべての」とか「それぞれの」「あらゆる」などの数量詞も存在しない。
左右の概念も、色を表す単語もない、神もいない。
自分がこうやってウダウダと考えるようなことはしない、必要ない。悔やんだり、悩んだりもしない…。
自分は犬ではないから我が家のRainが本当は何を思っているのかは計り知れないけれど、ピダハンとRainが重なる。
きっと彼らと一緒にいるとRainと一緒にいるのと同じ気持ちになるのかもしれない…。
あれこれと想像を巡らせば、ピダハンと呼ばれるその人たちが、森に暮らす様々な生き物と比較して特別な存在では無かったということであり、森の他の生き物と同様に、自分たちがそこで生きるために必要な言葉だけを使っていたということなのだろう。
そのことからすれば、ピダハンが特殊な言語を用いているということではなくて、我々現代人こそが、暮らしの場を移動しなければならなかったということであって、暮らす場を固定せずとも生きられるように言葉をつくり変えてきたのだと思う。
その言葉の中に美が含まれていることからすれば、言葉の記憶の中には私たちが美という言葉を必要とした何らかの理由が含まれているということ。
それを思うと、自分は日本語の記憶を辿るしかないのだろうな…と思う。
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