「KY活動」

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KYが「空気が読めない」の略語だったのは既に昔。

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いまKYは、「危険予知活動」を意味するとして、建築現場や工場、災害現場など、危険が伴う場で広く用いられるようになっている。

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と言うことは、一昔前のKYのKである…場の空気感が無くなったのかと言うとそうでは無く、共有される場そのものは無くなり、“空気を読むべきか読まないべきかという感覚が場を支配するようになったということ。

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場の空気感の共有による支配が無くなるそのいっぽう、誰も何も共有されないという感覚だけが共有されるようになったということなのではないかと思っている。

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ここ数年のパンデミック騒ぎによって注目されるようになった同調圧力とは、場の共有が目的ではなく、単にその場をやり過ごすためだけの、自らの思考停止を正当化するための方法に過ぎず、その方法が共有されたからといってそれ以上の繋がりは、誰も、何もない…。

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自分はこの一件が、それまでかろうじてあったひと昔前のKYの息の根を完全に止めたのではないかと考えていて、パンデミックによる影響が今後様々出てくるであろうけれど、実はそうした中でも、このことこそが、今後社会に与える影響は極めて大きいと思っている。

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少なくともそれまでは、空気が読めないことはある意味、笑いごとで済まされていた。

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場の空気感を読めない、あるいは読まないでいることによって、言い難いことを言うことが出来ていたという捉え方も出来る。

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この人は何てことを言いだすのだ…と思われたとしても、その発言があったかことによって、返って議論が活発化する…なんてこともあったかもしれない。

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もちろん、時には空気が読めないという理由で、つまはじき者扱いされることがあったかもしれないけれど…。

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しかし、この奇妙なパンデミックが起こり、同調圧力があちこちで起こったことによって、KYの息の根は完全に止められ、いまとなっては、もはやKYとは、公的秩序を乱すものであり、この社会の在り方を否定するもの…、それは犯罪にもなり兼ねないといった空気が社会を覆っているような気がしてならない…。

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人がこの社会に生き、そして何かを思ったり考えたりすることは間違いではない。

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そうすることが、この国が二度と戦争をしないという決意でもあったはずだ。

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一見穏やかそうに見えるこの社会が実は、本当は思っていることであっても、そのことはけっして口には出さず、思っていることさえも悟られないようにすることによってかろうじて成立してしまっていやしないだろうか。

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それはまるで、監獄に収容された人間が、常に監視され、権力に対して従順な身体であることを強要されるかのように…。

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資本主義は末期的状況だとか、そもそもこの国に民主主義なんてものは無かったとか言われもするけれど、日々、この世を生きていれば、感じること、思うこと、考えることは膨大にあって、それこそが個人の最大の自由であることは間違いない。

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自分は、そうした自由を脅かすものすべてに働く力そのものが「権力」であると考えているのだけれど、そうした権力を増大させる最大の要因は、私たちひとり一人が自分自身として、感じなくなること、思わなくなること、考えなくなること。

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そう思えば、自分がこうして、“空気も読まず”、感じたり、思ったり、考えたりすることを書き連ねることが出来ることこそが、この社会状況に対する、ある種のバロメーターでもあるのかもしれない。

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