制度化された教育には興味がない、というかそれに対して期待もしていない。
それはおそらく、国家であれ民間であれ、制度化された教育には少なからず、何らかの方向付けが生じがちであるそのことを懐疑的に捉えているからなのかもしれない。
それというのはおそらく、自分の考える「美と生命との関係性」が多分に影響しているからであって、このことについて簡潔に述べるのは容易なことではないのだが、あえて簡略に言ってしまうとすれば、美は無限でありはするものの、美そのものをパターン化することは出来ないと考えているからだ。
勿論、この世には規則的な配列というものが沢山あって、そこには美を感じることは出来るけれど、自分の感心は、そうした規則性や連続性の中に、人は何故、美しさを見出すのか…というところ。
それはきっと、「美と生命の関係性そのものでもある、美しさの本質が遺伝子情報として存在しているからなのではないだろうか…。
ようするに、人がこの世に生きる上でこの遺伝子に記された美の記述が極めて重要であるということ。
例えばそれは、この世に生命が宿りそしてやがて死すること、それが延々とくりかえされるという生命の本能。
もしもこの本能を邪魔するもの、阻むものがあるとしたら、それは何であって、何故、それはそうするのか?
自分の関心は常にそこへと向いている。
制度とは、社会関係を円滑に営むために定められた決まりごととして定式化されたパターンだとすれば、それは遺伝子に記述された人がこの世を生きるために必要な記述とは異なるものだ。
自分は別段、民主主義が重要だとか優れているとか思ってはいないけれど、しかし、自分が暮らすこの国が民主主義という制度、体制を選択している以上、民主主義とは何であるのかは重要だと思っているし。もしもその民主主義が美の本質に対する理解を邪魔したり、阻むものであるならば、自分はそれを否定することもあり得ると思う。
しかし、この国の国民の民主主義に対する理解度、あるいは、この国にとっての民主主義とは何か という議論が殆どされることがなくなってしまった いま について考えれば、結局のところ、自らが感じ考える力の著しい衰え という状況を招いてしまっているのはここと大きく関係していると思っているし、
そもそも、国家という権力が、国家体制の維持と舵取りにとって欠かせないであろうと考えれば、国としての教育という制度、そのために必要な教育のラインを如何に設定するかは極めて重要だと考えるのが当然で、別の言い方をすれば、主権を担うはずの国民の成長と育みは、権力にとっての障害になり得る危険性を含んでいるということだ。
だとすれば、国が主導する国民のための教育とは単に表向きの姿でしかなく、つまるところ、国が国家権力の維持のために教育を位置付け、制御している限り、国家権力に対する危険性は減少するということ。
結局のところ、社会のバランスを保つための必要性としての制度としての教育では、自らが感じ考える力は、育まれはしないということな気がする…。
国家権力による必要以上の教育への介入(民間教育とは言え国家権力の介入は避けきれないという現状)は、個人の権利や利益を国家全体の利害と一致するように統制を行うことにも繋がり兼ねないし、それはまさに全体主義に通じ兼ねないということなのではないか。
この国が本当の民主主義国家としてあろうとするならば、国は学びの多様性を担保するだけの立場に留まるべきであり、学びの場に直接介入すべきではないと自分は思う。
昨今の社会情勢に照らし合わせつつ、そう考えて行くと、この国の民主主義はどうにも怪しい…ということに気付かざるを得ない…。
と言うよりもむしろ、この国で語られる民主主義とは、当初から単なる表向きの姿に過ぎなかったのではないかと思えてくる。
戦後日本の教育をつうじて、民主主義国家であることが高らかに鼓舞され、民主主義こそが正しいものであると教えられてきたものの、その根幹を担っているはずの個人主義についての学びは疎かなままであったのはなぜか。
これについては、次に。
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