大熊町熊川地区にいる間ずっと、あまりの現実に打ちのめされそうだった。
累積する放射能数値を示す線量計を首から下げることぐらいでしか、いまなお高線量放射能が降り注ぐ場所であることを認識する手立ては無く、打ち寄せる波の音も、鳥のさえずりも、風の音も、そこにあるのは本当の自然の有様だった。
と同時に、自分が美術家であることなんて何の役にも立ちはしないではないかという想いが頭の中をずっと駆け巡っていた。
今回の福島行きは、東日本大震災の津波で福島県大熊町の自宅が被災し家族3人を失った、木村紀夫さんを代表として立ち上げられた「大熊未来塾」のワークショップに参加することが主目的ではあったのだけれど、これに合わせて、自分にはもう一つの目的があって、それは南相馬市小高区に7月に開館した 「おれたちの伝承館」行くことだった。
国や県をはじめとした行政主導の様々な復興事業によって瓦礫や廃墟と化してしまった建物が次々と片づけられると同時に、津波によって壊滅的な被害を受けた海岸線には新しい防潮堤が築かれ、新しい道路、新しい街が次々に出現している。
震災から12年が経って、そうした巨額が投じられ続けている復興策の成果が次々に目に見える形となって現れて来ていると同時に、ここ最近はそういった復興事業の完成を記念する様々なイベントが目白押しなのだそうだ。
福島第一原発からほど近い、双葉郡双葉町に福島県によって建設され、福島イノベーション・コースト構想推進機構が運営する「東日本大震災・原子力災害伝承館」は、地上3階のまさに復興の象徴とも言うに相応しい壮観な建物。https://www.fipo.or.jp/lore/
「東日本大震災・原子力災害伝承館」からR6号線を車で20分ほど。
南相馬市小高区にある「おれたちの伝承館」は、ガス屋さんの元倉庫を再利用した場所。
2017年から今までに4回、写真家の中筋純さんを中心に各地で開催されてきた「もやい展」のアーティストとスタッフ、そして南相馬市小高区の双葉屋旅館さんを中心に集まった人々がつくりあげた小さなアート展示場。
福島原発事故とは何であるのか?
その問いをアーティストが自分自身に問い、そして出した自分なりの答えをアーティストの感性をつうじて伝承する試みをアートプロジェクトとして開催しているのが「もやい展」
その「もやい展」が現在開催されている場所が「おれたちの伝承館」 https://congrant.com/project/moyai/6407
小高駅からほど近い住宅街の一角にある二階建ての建物に一歩入ると、どこかしら懐かしい感じがした。
美術館や画廊が放つ雰囲気とは違う、アーティストの想いが放つ気配が空間に満ちているその感じは、大学生時代に仲間たちとつくりあげた展示風景を思い出させる。
限られた空間であるがゆえ、どうしても作品と作品が折り重なってしまう。
美術館であればこの狭い空間にこれだけの要素を詰め込みはしないだろうけれど、その展示風景は逆に、アーティスト達がもっと右だとか、もう少し上…だとか大きな声で言いながら、この展示そのものを共同作品としてつくり上げようとしたであろう気配として感じられる。
かつて自分も経験したそんな気配に包まれている間に、自分が熊川で思った美術家を名のる自分に対する無力感なんてことはいとも簡単に吹き飛ばされるような気がしていた。
Artだとか美術とは何か…、なんてことはこの世の全体のバランスからすれば然程重要なことではない。
そんなことを言っているから、Artや美術が専門家に専有され、結果的にはアートが難しくてわからないものになってゆく…。
おいおい、そんなことは百も承知していたはずではなかったのか。
だからこそ、いつまでたっても稼げないようなギャラリーを20年以上もやり続けてきたんじゃなかったのか。
自分が何をどう思うのか…それが大事じゃなかったのか。
アートであるかどうか何てことは、ここじゃ何の役にもたたないんだよ…。
なるほど…。
自分が福島に来ようと思ったのは、そういうことだったのか と思った。
いつの間にか、だいぶやられていたみたいだ。
熊川で自分が感じたあの気配は、絶望では無くて今自分たちが持ち得る最大の希望だと気付いた「おれ伝」。
おれたちの伝承館だった。
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