「気配」

ここ、長野暮らしの中でも、山の上から冬が里に向かって降りてくるこの時期の気配は格別。

目に映る風景とは違う、大気と地表との接触面に於いてありとあらゆるものが混じりあう気配はこの時期、ことさら感じやすくなるような気がする。

この世を形づくるものすべては振動している。

振動は極めて微細な振動でありながらも、空気も水も…細菌も…すべてが振動していることからすれば、この世とは隙間なくすべてが振動しつつ触れ合い繋がり合っているということでもある。

自分が冬の気配として感じるそれは、山の上に薄っすらと舞い降りた雪の白さを゙見て寒そうだ…と想像することではなく、太陽からの光や、空気中の水分量、木々が放つ匂い、風…といった、数えきれないものが振動することによって山の上の振動が瞬時に繋がり、自分はそれをその瞬間の気配として感じているということ。

自分はこれが波動であると理解してそう呼ぶことにしている。

波動に違いはあるにしてもそれそのものに優劣はないし良いも悪いもない。

天変地異をはじめ人間が抱える不安や恐怖、喜びも悲しみも怒りも…そこには波動があるだけのこと。

人は何か悪いことが起こると、何かしらの存在が元凶であってそれを取り除かなければなならい…という捉え方を間違いとは言い切れないもののの、でもそれは所詮人間中心の捉え方であるのだと思う。

とは言え、自分が病気になればその原因を探り、それを取り除こうとする気持ちが無いとは言えないし、副作用を気にしながら薬だって飲んでいる。人間中心の呪縛に囚われていると思いながらも、自分にはどうしようもない…と、見て見ぬふりをしてしまっていることは実に多い…。

人間世界は激動の真っ只中にある…

この状況を端的に言い表すことはとても難しいけれど、新型感染症の世界的流行による混乱、それに続くウクライナでの混乱、そしてイスラエルとハマスとの間で繰り広げられる混乱へと続いているけれど、一つだけ言えることがあるとすれば、外側が発せられる情報の真偽性が崩壊しつつあるのがいま ということ。

別の言い方をすれば、情報の脆弱性を認識しつつも、世界中の国々が情報という機能性を如何に強固に作り替えるかに奔走している状態が いま である気がする。

少し前まで、国家や大企業のような存在だけが持っていた情報を発する権限が、小さな民間企業、個人までもが様々に情報を発信出来るようになるに連れ、いままで一方的に信じ込んでいた…信じ込まされていた基準だとか秩序に対して、あちらこちらで綻びが生じ始めたからかもしれない。

でも、だからこそ、人々が真実だとか正しさを求め続ける限り、情報は価値を持ち続ける。情報の脆弱性を修正しながら…。

現代の戦争は情報戦…と言われるように、情報は既に最も強力な武器であり、だからこそ権力は情報を最も重要視する。情報の伝わり方次第で大勢は大きく変化する。

そう考えれば、残念ながら私たち民間人が知ることができる情報すべてが正しい情報であるはずもない…戦争とはそういうものだ。

そしていま、国と国による戦争のみならず、私たちすべての日常が情報に覆われてしまっていることからすれば、戦火は既に日常にまで達しているということ…大袈裟に言えば、私たちは既に戦争の真っただ中に立たされてしまっているということなのかもしれない…。

自分がいま最も危惧することは、世界各地で頻発する混乱…戦争や紛争、世界的なパンデミック、あるいは原発事故のような、人々にとってショックが大きいことが起きれば起きるほどに、人々の中に確かな情報や正しい情報を求める声が高まってゆくと同時に、混乱を避けるための明確な基準、安全基準を求める声もまた高まってゆくのではないか。

国家にしても組織にしても…「権力」とは初めからそこに存在するものではなく、人の求めによってつくられ、強化してゆくものであることを、私たちはいま一度考える時にあるのではないか。

私たちはいつしか、外側から発せられる情報がなければ生きられないと思い込んでしまっていると同時に「感じる」という人間が本来持っているはずの最も重要な力…生命力が著しく衰えてしまっている…。

冬の気配は外部からの情報ではなく、自分が感じることのできるものであるのだから。

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