「心に余裕がない…」とは、よく聞く言い方だけれど、それはいったいどういった状態なのか…。
心という領域については心理学や精神医学、脳科学…哲学でも扱われはするけれど、自分の場合は、芸術…とりわけ美術という観点から心について考えるということになろうか。
自分は、美術とはそもそも、心と美の関係以外のなにものでもないと思ってはいるものの、いま現在の社会では、芸術や美術が心からあまりにも大きく遠ざかってしまっている気がしてならない…。
自分が美術から心について考えるのは、かつてこの国(日本)が明治という時代の大きな変換期に、膨大な西欧概念を輸入することになったそこと関係している。そうした時代に美術という言葉がArtの訳語とされたこと…。
西洋概念の輸入は当時の日本が置かれた立場からすれば避けられなかったとは言え、宗教観や文化を゙はじめ、価値観の違いが明確である中で、その後の日本語となる訳語が極めて重要な役割を゙担っていたことは言うまでもない。
当時の日本人にとって「美」は何を意味していたのか…。
心について考える上で「美」との関係はことさら重要だと思っている。
とは言え、自分はその時代から100年以上後になって、西洋概念であるArtに触れたことよって、「美とは何であるのか」という問題に辿り着いた自分からすれば、現代に生きる人々にとってArtは美の入り口になり得ると思ってはいるものの、そのArtだけでは心にこれ以上歩み寄れない気もしている。
心と思考は光と音の違いにも似て、心の動きの速度は思考とはまったく比較にならない程の驚異的な速さ…というか、心が感じ、脳を用いて考えるのだとしても、心は既に何かを゙感じている…という点からして、その性質はまったく異なるもの。心が人間の脳と関係はするものの、あくまでもそれは二次的三時的な関係に過ぎないし、そもそも心と脳はまったく異なる性質として捉える必要があると思う。
限界ギリギリまで思考するといった状態は解るものの、限界ギリギリの心の状態、それが心に余裕がない状態だとすれば、もしかすると自分はその状態について実感したことがないのか…。
仮に心というものが許容量を超えてしまいそうなほどのギリギリの状態にあって、もう何も感じられなくなる様態、それを「心に余裕がない状態」と表現するのだとすれば、自分の心はやはり心の許容量に達したことがないということなのだろうが、でも、そうであるからと言って自分の心が必ずしも余裕ある状態…であるとも言えない気もするのだが…。
この世に起こるたくさんのことに深く興味があるし、この世に起こるそうした様々な出来事にたいして感動が起こることもあれば怒りの感情も沸き起こることもある。
でも、そうした怒りや絶望の感情であったとしても、その感情が何とどう繋がっているのかに興味が向いてしまう自分について思えば、もしかするとそうすることによって、その感情だけに心が満たされないようにしているのかもしれない。
そんな自分を冷めていると言うことも出来るけれど、もしかするとこれもまた美の何かしらが影響しているのかもしれない…。
基本的には感動であろうと怒りであろうと悲しみであろうと、自分の心が動かなければ考えることもないし、やる気は起こらない。
…怒りに対するやる気 と言うのも可笑しな気もするけれど、怒りも絶望も、悲しみも…すべての感情は自分の中に沸き起こる感情。そうした感情と対峙しようとする心の動きが「やる気」だとすれば、心の状態のバロメーターでもある「やる気」がないことを無理を推して行えば必ずやどこかしらの体調不調や関係性の滞りとなって現れる。
このところの社会は不安定さがさらに増し、そうした不安定さをもたらす要素を数え上げればきりがない…。
最近の自分は、四六時中、何かしら考えてばかりいる…というか、考えなければならないことが山積みなので、思考が置かれた状態からすれえば常に余裕はない…。
しかし、こうした状態が自分にとって心地良い状態なのかどうか疑問はあるにしても、この状態が嫌だとか避けたいと思ってもいない。ようするに自分はこうした状態を心の何処かで望んでいるということでもあって、
だからこそ、この世に起こる様々に興味関心が向く…。
ようするに、人の心とはこの世のすべてが発している波…のような動きを、捉える受信機のようなものだのだと自分は思っている。
とりわけ、この世が発する動きの中で、「美」は最もたくさんの人に届く波動を携えているのではないか。
私たち現代人はいつしか、優れている…だとか、高い評価…だとかいった外側からの情報に溺れ、自分の心で感じられなくなってしまいがちだ。
夥しい情報は、あたかも自分の心が感じているように錯覚させ、人の心が満杯になろうとも無理やり入り込んで来ようとする…。
現代に生きる人々の心が痛んでしまいがちなのは、そうした情報に対する言わば心の正常な反応の現れでもあると言えそうだけれど、それと同時に最も重要なことは、閉じてしまった、あるいは、閉じようとしてしまった心をどうやって正しい心の状態へと誘うかであるけれど、本来であれば、そこに「美」が機能すべきなはずであるけれど、残念ながら、そういった人々にとっては押しつけられた「美しさ」もまた情報に過ぎず、受け入れられない…。・
単に美術作品であれば…とか、美術館に行けば良いということではないことを、芸術、。美術、Artに関わる人はよほど深く考えるべき時にあるのではないだろうか。
もはや既存のArtでは、人の心はそう簡単には取り戻せないというその事実を、Artは既に抗鬱剤より選択されてはいないというその事実を、思考のぎりぎりまで、もうこれ以上考えられない…ということろまで考えなければならないのではないだろうか。
この世のすべては美を内在し波動としてそれを発し、この世のすべてはその波動を感じる力を合わせ持っている。美術はこの世に内在する力を守り、人の心を育むためにあるべきであって、美が専有される状態から解放するためにあるべきなのではないのだろうか…。
美の波動に対して心の受信機の周波数を合わせるにはどうしたら良いのか…。
美術家だと言いながら、美術では何も出来ない自分に対して歯がゆさを感じながら、いま自分に出来ることがあるとすれば、それを阻もうとするあらゆるヒト・モノ・コトに対して、はっきりとNOと言うことぐらいかもしれない…と思う。
※画像はネットからお借りした最近の自分のイメージです。
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