「余計なこと」

物事に集中するためには余計なことは考えないようにすることが大切…と耳にすることは多いけれど、そもそも、この世にとって余計なことなんてものはない。アイヌの言い伝えにもあるように、この世に役目なしに生まれてくるものは一つもないのだ。

にも拘わらず、何かを余計なこととして排除し、考えないようにさせる巧妙な社会の仕組み…。それがまるでこの社会における悟りであるかの如く強要し慣らされてしまっているのが社会の現実ではないのか。

こうした社会の中では人がこの世に生きるために必要な芸術やArtは育まれない…というか、芸術やArtが持つ力によって本来その先にあるはずのこの世の全体に人を誘えないのは至極当然だと思う。

今年は自分がこれまで様々なものづくりに携わってきた中で最も辛い出来事に遭遇した。その辛さをもたらした出来事は未だ解決の糸口が見出せてはいないけれど、このことをあえて客観的に捉えつつ考えれば、この背景にはまさに、余計なことは考えないようにしようとする社会と、そこに生じる様々な歪みに気付く。

社会とこの世は同じではない。

けれどそこには当然のこと深い関係がある。

この世とは生きとし生けるものすべて…石や空気や水といったこの世のすべてが含まれる総体…自然の在り様。いっぽう社会とは、ある共通項によって区別・成立した人々の集まりのこと。

美という概念、そしてまたArtや芸術という概念もまた、この世にはじめからあったわけでなく、そうした人間社会にとっての必要性として生じたものだ。

「この社会に美は如何に存在するのか…」という問いは、美術家である自分にとって最も重要な問いであるのだけれど、それについて考えるために先ずは社会を様々な視点から注意深く観察しなければならないと思っている。

美術館やギャラリーに並ぶArtや芸術を否定こそしないまでも、もはやそこだけでは社会とArt、芸術との関係性に対する気付きのきっかけは殆ど得られなくなってしまっていると言わざるを得ない…。

別の言い方をすれば、社会はその機能性としてArtや芸術を管理選択しつつあるということであって、そうした状況では、社会とこの世との関係もまた希薄になりつつあるということでもある。

「社会は美を必要としているのか」

これについて考えるためには先ず、「社会とは何か」と「美とは何か」という両面から考えなければならない。

「社会とは何か」と「美とは何か」

これについての考察はとてもSNS上でまとめられるようなことではないけれど、重要なポイントは、人は社会を人つくることが出来るけれど美はつくれない…ということ。

社会が余計なこととして捉えるそれもまた、この世に於いては美の在り様。

Artや芸術は社会にとって余計だと思われるそれをこの世における美の在り様をつうじてこの社会の必要性として変換することが出来るはずなのだ。

東日本大震災から12年目の今年10月。

震災による津波と原子力事故災害によって大切な家族を亡くしてしまった友人のその後の活動に触れるために福島に行った。

国主導によって巨額の復興対策費が投じられ、震災がまるで終わってしまった過去の出来事であるかの如く出現する真新しい駅、広い道路。新しい街…。

そうした場所からほんの少し離れただけの住宅街の一角に二階建ての倉庫はあった。

「俺たちの伝承館」

何とも暑苦しいその名称に負けず劣らずの作品群。

自分の心の内に蠢いていたはずのArtに対する疑念と失望など微塵も感じない。

まさにそこにあるのは、社会が余計だと言って考えないようにしてしまおうとしている「それ」が満ちている。

「Artが売れたらおしまい…」

同世代の仲間が事あるごとに笑いながら言うその言葉を思い出しながら、社会など無くなってしまったとしても、この世はあり続けるのだから…と思っていた。

余計なことに気付かせてくれる皆様に心から感謝します。

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