「稼ぐ力」

2021年の初夏、Galleryと名の付く場所での個展をおよそ25年ぶりに開催し、翌年2022年も同じ場所で制作と展示を行った。続く昨年はGalleryの都合もあり、そうかと言って他の場所のあてもなかったし、その気もなく…、と言うよりもむしろ、作品を制作し展示するという意欲を根底から削ぎ取られるような苦い出来事に翻弄されしまっていて、それどころではなかったと言った方が正しいと思う…。

とは言え、2021年から2年続けて作品の制作展示を行ったことによって、自分の中にあった何か…が呼び起こされるような感覚があって、その感覚はいまもずっと変わらずに続いている。おそらく直面している苦い出来事も少なからずそれと関係していると自覚してもいるけれど、この感覚というものが果たして自分にとって良いことなのか悪いことなのかについてはいまはまだ判らない…。

ただ少なくとも、自分の美術との関わり方、考え方がその感覚を呼び起こしたことは明らかで、その感覚が自分のいま、そして今後に対しても強く影響するであろうことは間違いないと思う。

年明けの地震に同様しつつも、そんなことを思いながらFacebookを眺めていると、友人を介して繋がっている人の投稿の中に、美術批評家・千葉成夫の『増補 現代美術逸脱史』(ちくま学芸文庫、2021年)の(「増補へ」)の中の言葉があった。

>「〈アート〉というようなまるで無意識裡に西欧追随が骨がらみになってしまったかのように〈片仮名〉を平気で使う頭脳と感覚の〈ていたらく〉からは、少しは抜け出せると思ったのである」<

1986年の初版の冒頭で千葉が、「美術はいま非常に困難なところにやってきている」と記していたその頃からおよそ40年。

美術は困難さの只中へと進んだまま、いまもそこから抜け出せないでいるということなのだろう。

かつて1986年頃の自分は大学院在学中で、はじめての個展もちょうどこの年だった。しかし、当時の自分や自分の周りの状況を振り返ってみても、千葉が指摘しているいるように、美術が困難な時代に差し掛かっているという感覚を持っていなかった…というか、高度経済成長の真っ只中だったその時代、自分たちのような駆け出しの美術作家たちは競い合うように展覧会を繰り返していて、いまにして思えばそういった状況がまさに泡のようにアートが消費され始めた始まりだったのかもしれないと思うものの、その当時の自分は作品をつくることに忙しすぎて美術それそのものに対して意識を向けるといった余裕はまったくと言って良いほどになかったと思う。

千葉の言葉、批評はそうした自分たちが置かれた状況も含んだ上のものであったとは思うけれど、その予想のとおり、美術が非常に困難なところ向かってしまったその結果、〈アート〉というようなまるで無意識裡に西欧追随が骨がらみになってしまったかのように〈片仮名〉を平気で使う頭脳と感覚の〈ていたらく〉な時代になってしまった…としても、そのことが逆に、自分が美術家という生き方を選択することになった理由であるような気もするし、この歳になっても未だ、反逆だとか、屈しないだとか、不服従だとか、抵抗…だとかという言葉が放つその気配が気になって仕方がないのは、そうした言葉のすぐ隣には美術がある(…あった)と思っているからに他ならない。

「なぜ」そうした言葉のすぐ隣に美術があると思うのか。

それについて考えた時、美術とはその答えではないものの、自分の中に芽生えた「なぜ」へとつうじる扉にはなり得るものであり、実はそうであることこそが美術が美術として在り続けることにとっての必要性であると思っているからだ。

それは美術とは何かということではないし、美術とはこうあるべき…とは相反するベクトルであり、美術が持つ荒々しさ(粗雑さ)は荒々しさとしてそのままにしておくことによって「なぜ」へとつうじる扉になり得るということ。

もしもそうした美術の荒々しさを制御可能なものにしようとした途端、「なぜ」へと誘うはずの扉は固く閉ざされてしまうと思うのだ。

正直言って、その扉になり得るものが美術以外に見い出せたとしたら自分は美術など無くなってしまってもかまわないとすら思っているけれど、いまのところそうした「なぜ」へと通じる扉を美術以外に見出すことが出来ていないし、国家や市場とによって簒奪され、植民地化されつつあるアートの現状を思うと、ちょっと待て!!と言わずにはいられないのが正直な気持ちだ。

昨年の11月27日に行われた参議院予算委員会において、参議院議員の 吉川ゆうみ から、「現代アートを“稼ぐ力に”」という提言がなされたそうだ。

吉川議員は、日本の財源のために地域づくり、観光、農業、漁業を「稼げる」という観点で活発化させるため、政府の支援が必要であると主張すると共に、そのなかで現代アートを核にした「稼ぐ力」も重要視すべきと述べ、この提言に対して、内閣総理大臣の岸田文雄は、「インバウンド需要拡大のために富裕層にとって関心の高い現代アートを活用するという考え方は重要であると認識をしております。そしてすでに文化庁を中心とする取り組み、あるいは国立美術館を中心とする取り組みをさせていただきましたが、政府一丸となって日本における現代アートの国際的な拠点形成などこのインバウンド拡大にもつながる取り組みを盛り上げていくという考え方は政府としても重要視してまいりたいと考えます」と回答した。

現代アートを稼ぐ力に…という国策。

もはや、片仮名の〈アート〉を国策として用いようとしいるといったこの状況とは、この稼ぐ力を用いた経済活性化という扉以外には難く鍵を掛けようとしていることと同じではないのか…。

〈アート〉という〈片仮名〉を平気で使う頭脳と感覚の〈ていたらく〉から、少しも抜け出せてはいないどころか、このままで行けば美術が美術では無くなる日はそう遠くない未来かもしれないと思ってしまうのは、稼げない美術は何故稼げないのか…のその「なぜ」へと続く扉の前に立っている自分だからなのか…。

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