「道楽」という語には仏道を求めるという意味があるのだそうだ。
美術や芸術を職業や仕事として選択するのでは無く、何か別の仕事(美術や芸術ではない)をしつつ、たとえ誰からの求めが無くとも美術や芸術に対して時間も金銭も費やし続けるといった行動…。そうした行動に至る真意を掴むことが出来ず、見るに見かねた際に、その周辺から皮肉めいた意味を込めた「道楽」という言葉が使われるといったことがよくある。
それというのは、道楽だと思わなければ理解しようがない ということでもあって、世間一般論からすれば、仕事以外のことに熱中するとか、酒や色事に溺れるだとか、ギャンブルなどの遊びにふけるといった行為に対して使われる道楽という言葉を使うことによって、理解は出来なくともとりあえず自分を納得させようとするのだと思う…。
そう考えれば、稼いだお金を美術や芸術につぎ込むなんてことは、酒や色ごとにお金をつぎ込むことと同じで、美術や芸術なんてものはギャンブルだと言っているに等しいものの、実のところ、美術や芸術が何であるのかも、そうする行動そのものが理解出来ない時に使われる言葉として重宝するのかもしれない。
確かに…。美術や芸術やArtによって有名になるとか、大金を得ること…そうしたことはあり得なくはないけれどその確率は極めて低い…というよりもむしろ、芸術やArtを含む現代のアート関連業界そのものが、そうした確率の低さゆえに成立していると言っても間違いだとは言えないし、別の言い方をすれば、芸術やArtの経済的価値とは、芸術家やArtistとして経済的に成功する率の低さに比例するということであって、この経済をさらに推し進めるためにArtや芸術はアートの広い裾野の中に飲み込まれようとしている(…しまった)のかもしれない。
だからと言って、自分は単にアート経済を否定したいのではなくて、Artや芸術といった価値の判断を経済に頼るしかなくなってしまっている社会の現実、そうした現実がこの社会の何に対して、どう影響を及ぼしているのか…。そうした社会に於いてArtや芸術はどう変化するのか、しないのか…。その関係性に対して自分は注目している。
仏教では道楽を「ドウギョウ」と読み、楽は願と同義であって仏道を願う(楽=ねがう)が原意。この道楽(どうぎょう)の意味が転じ、やがて、道を修めて得られる楽しみや喜びを表すようになったのだそうだ。
自分は仏教を信仰していると言えるほど仏教のことは知らないし学んでもいないけれど、仏道を求めようとする道楽(どうぎょう)といった心が、Artや芸術を求める心にも通じるものであると直感するのだ。
いままで自分は、たくさんの哲学を食べ散らかしては来てはみたものの、正直言って、そうした哲学の多くが異なる言語から生じていることに対する違和感は拭い去れず、限界を感じずにはいられなかった。
だから自分は仏教…と言うことではなくて、自分にはいまのところ仏教であったとしてもそこに対して疑いを持ち込みつつ、いま自分が生きるこの瞬間だけを信じたいと思っている。
たとえこの世の中で美術や芸術が道楽だと思われようが、だからこそ、「社会的には何の役にも立たないことにおいてのみ、社会に役立つという逆説的な意味合い」がそこに生じるのだと思っている。
この社会にはもっとたくさん…どうしようもないほどたくさんの、道楽(どうらく)と道楽者が必要なのだ。
写真上:小諸読書の森に移設された「道楽オルガン」
作:田島征三・松本雅隆
写真下:道楽オルガンの前で道楽音頭で踊る道楽者たち
小諸・読書の森「インターナショナル盆踊りフェスタ」
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