暮らし続けてゆくためには稼ぎが必要で、こんないい加減な自分ではあっても日々稼ぎに出掛けている。
とは言え、この社会に暮らしながら、自分には「儲けるという感覚」がどうにも不足しているといるということは言うに及ばない…。
働くことは嫌いではない、けれど、人一倍働いたとしても必要な稼ぎを得ることが難しいのは、この社会の仕組みを心の底から理解出来ていないということであって、…というか、この社会が縄文時代とは異なる社会の仕組みによって成り立っているということを頭では解ったつもりではいても、どこかしら、その仕組みを拒否してしまう自分があって、それはようするに、この社会における社会性が欠如しているということなのだろう…。
一般的に社会性とは、集団をつくって生活しようとする人間の持つ基本的な傾向であり、広く社会に通用する、または、存在価値が認められる性質や、社会集団の一員であるのにふさわしい性質を示す。
けれど、こういった性質である社会性と個人の人格とが一致しづらいという傾向は、ここ数年、益々高まっていて、そうした社会的傾向が、社会の様々な問題の根底に共通しているのではないかと自分は思っている。
別の言い方をすればそれは、自分が自分らしくあることによって形成される「パーソナリティー(人格)」が社会性をつうじて否定もしくは崩壊し、社会の求める性質に人格が合致出来なくなってしまうということであって、その結果、社会に生きるためには自己を消失させるしかない…という精神状態を呼び起こす…。
鬱病や引きこもり、登校拒否や自傷行為、依存症…そうした行動や現象は、社会と個人の人格の不一致によって生じる、ある意味では自己防衛本能と言っても良い気もするけれど、本来であれば、そうした方法を選択させなくても良いようにすべきなのは、社会の側である可能性が高いものの、そのことについて私たちは、あまりにも軽く考えてしまっている気がする。
そうした、社会性との不一致状態にある人格を、この社会は、「パーソナリティー障害(personality disorder, PD)」として区別するけれど、しかし、そもそも、こういった個人の人格と社会の求める性質が合致出来なくなってしまうという状態は、個人の人格だけが問題とは言い切れないはずであり、「社会性が無い」と言う、その社会とはいったいどんな社会であるのかこそが重要…というよりもむしろ、この社会を選択している私たち一人ひとりが、社会の在り方について深く検証しなければならないはずなのではないだろうか。
目には見えない社会という現象と個人の人格。
どちらも一言で語ることはけっして出来ないほど複雑であることは言うまでもないけれど、とは言え、私たちはどこか、社会こそが皆が共有すべきものであり、個人の人格に優先するものと思ってしまいがちがではないだろうか。
「人一人の命の重さは地球よりも重い…」と言いはするものの、それというのは正にダブルスタンダードであって、その実、社会が個人に優先してはいないだろうか。
だからこそ、そこに「障害」という区別が必要で、そうすることによって益々、社会性が重要視されることになっているのではないだろうか。
社会性とは何か…について考える時、「社会」と「国家」とを混同してしがちではないか…。
自分は、この世には社会はあるれど、国家はあるようでいて実は何処にも存在しないものだと思っている。
…というか、国家だと思っているのは、集団をつくって生活しようとする人間の持つ基本的な傾向によってつくられる社会が集合した総称に過ぎないもので、その国家という相称を形づくる社会とは本来、人間が生活するために必要な集団の数だけあって、その最も小さな単位が、例えば家族関係による社会であり、友人関係によってつくられる社会ということだと思う。
しかしそういった社会が、国家という枠組みによって絡み取られてしまうことによって、それぞれの集団が持っていたはずの個々の社会性は、国家としての社会性へと統合され変貌してしまう。
ここに歪みが生じ、人格が否定されることへとつうじるのではないか…。
かつて、明治時代の終りごろから、日本のあちらこちらで神社合祀が励行した時代がある。
これは各集落毎に数々ある神社を合祀して、一町村一神社を標準とせよと強制威圧的に推進しようとした国策だ。
町村の集落ごとに祀られている神社は、住民の融和、慰安や信仰の拠りどころであり、それはまさしく小さな社会を形成していたとも言えるが、国家は神社合祀を励行し、国家神道を強制的に形づくることによって国家という社会性を獲得し、その社会性がその後、大陸への進出や戦争へと向かうために利用されたと言っても間違いではないと思う。
社会と個人どちらが優先されるべきかということでは無く、人間という生き物には集団をつくって生活しようとする基本的な傾向、DNAがあることを思うと、社会性が強ければ強いほどに、個人の人格が否定されがちで犠牲になりやすいという事実があるからと言って社会性そのものを否定するわけにはいかない、
個人を犠牲にする社会性ではない、個人と社会が共存するために必要な社会性を如何にしてつくるか…。
それについて考え実践するための場をこれから具体的につくりたいと思っている。
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