ジョージ・オーウェルの小説を読んだことがある人であれば、「ああ、あなたが好みそうな作家さんですね…」と思われるかもしれないが、小説を殆ど読まない自分にとっては稀で貴重な作家であると思う。
第二次世界大戦の前後。反スターリニズム(反共産主義)、反ファシズム、反全体主義思想の持主であったジョージ・オーウェルは1945年に、人間の農場主に対して革命を起こした動物たちが二人の指導者の片方により苛烈な支配をされる過程を描いた風刺小説『動物農場』を執筆して一躍人気作家となる。
晩年に書かれた『1984年』では、「オーウェリアン」 (Orwellian) と呼ぶ管理型社会をつうじて、全体主義国家の本質や残酷さを描いているが、全体主義を悲観的に描くオーウェルのディストピアから自分が感じること、考えさせられることは実に多い。
中でも特に注目する点は、「思想統制とは、言語統制のこと」であると考えていたであろうこと。
それは、『1984年』の中で用いられている「ニュースピーク」という全体主義国家の公用語である架空の言語の記述に良く表れている。
>ニュースピークの語彙は、党員が表現したいと正当な欲求を覚える意味それぞれに対して、正確で、しばしば非常に巧妙でもある表現を与えるように構築され、その一方で、それ以外の意味をすべて排除し、また間接的な方法でそのような意味を表現する可能性をも排除したのだった。<
>ニュースピークは思考の範囲を拡大するのではなく縮小するために考案されたのであり、語の選択範囲を最小限まで切り詰めることは、この目的の達成を間接的に促進するものだった。<
(「1984年」 ジョージ・オーウェル ハヤカワepi文庫)
「この目的の達成」とはつまり、監視社会が実現される社会のこと。
監視社会は権力を保持するためにあり、かつ、権力の目的は権力である…と、オーウェルは言う。
“思考の範囲を拡大するのではなく縮小するために考案された”それはすなわち、思考力とは語彙力であるということであり、語彙力を管理することによって権力は今よりもさらに強化されるということなのだ。
“権力の目的は権力”
しかし、権力とは国家という意味に留まらないと自分は思っている。
というよりもむしろ、それはこの社会の隅々にまで深く浸透する、支配という構造にとって最も重要、かつ、必要な力であり、この力の下にこの世のすべてがあると自他共に錯覚させてしまう力のことだと思っている。
だからこそ、権力という力によってこの世を錯覚して捉えてしまった者は、その力が消えて無くならないように、さらに強力な権力を欲し続けるのだ。
そして権力はこれと同時に、深く考えない、権力に従って生きていさえすれば、自分には問題が起きない…楽に生きれるという考え方を持つ人を大量に生み出すことへと通じる。
それは逆に、少しでも権力に背けばすぐに制裁の対象となるということでもあるのだが…。
この権力者と権力に従う者によってつくられる、言わば共依存の関係が、この社会に様々な歪をもたらす根源であると考えることが出来るのではないかと思うのだ。
共依存の関係は、どちらか一方がその関係を拒否することによってでしか解消の糸口は見つからない。
しかし残念ながら、権力の目的が権力である以上、権力の側からその関係を拒否することはないであろうことからすれば、社会の歪を解消する手立ては、権力に従わざるを得ないと思っている側にこそある。
語彙力と言ってしまうと、いまさら語彙力は育めないと思ってしまいがちだけれど、語彙力とは何も言葉だけとは限らない。
絵を描くことも、写真を撮ることも、歌ったり、踊ったりすることもすべて…語彙力に匹敵するものだ。
ただし、ここで大切なことは、権力者に気に入られようと思わないでいられるかどうか…。
権力者の横暴が自分に対して及ぶことを心配する気持ちを持ってしまうのは無理もないけれど、でもしかし、権力者が用いようとするその力が通用しないと思わせるそのことこそが、結局は権力者の横暴から自分の身を守る最善の策になるのではないだろうか。
実に難しいことのような気もするけれど、権力者は思考力を゙持たれること、「自分で考えること」を最も恐れているのだ。
考えることをけっしてあきらめない。そのことこそが、この社会の歪を減らすために最も必要なことであることは間違いないと思う。
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