「百葉箱」

自分の仕事について説明することの難しさ…という問題を解決できないまま、もう既に数十年が経つ。

こんな、明日をも知れぬ綱渡り人生はもういい加減どうにかしなければいけないと思ってはいるものの、人から人への繋がりによって、ここまで何とか生きて来れたことを思えば、結局のところ、“私の仕事”と限定出来るものはない、ということでもあって、その時々の関係性の中で、“自分がやってみたい”、あるいは“自分が出来ると思ったこと”をその都度、仕事にしてきた…そう言った方が正しいのかもしれない。

…と言っても、

“やってみたい” が、“出来ること” であるかどうか判らない…。

考えてみると実はここがポイントだと最近になってようやく気付いた。

“やってみたい”が“出来ること”よりも圧倒的に優先される。

そのことが自分の仕事についての説明をより難しくしているのではないかと。

ようするに、“やってみたい”が優先される以上、“経験の有無” は、やらない理由にならないということでもあって、“やってみたい”のなら、出来るようになればいい…。仕事にしたくて出来るようになったことが無いということなのだ。

そういった経験の積み重ねによって、何となく、自分にとっての“仕事らしき状態”が出来て来て行く。…とは言え、そもそも自分は仕事がしたかったのではなくて、やりたかっただけ。社会一般的な「仕事」という概念が根本的に不足?歪んで?いる。

今更ながらこのことに気付いた自分について自己診断するとすれば、「社会的職業性欠如発達障害」…かもしれない。

少し前、お世話になっている設計士さんと何となくの会話していた時、「小池さんが本当は何をしたいのかよくわからないなぁ…」と言われ、確かに…自分には社会的一般的な職業感覚が無いに等しいし、にも関わらず、美術家だと名のってはいるものの展覧会は殆どしない、これといった美術作品もつくっている様子もない…となれば、そう言われるのは当然だろうな…と自分でも思う‥。

そう言われたからと言って馬鹿にされたとか侮辱されたとはまったく思わないし、そう話した設計士さんもまったく悪気が無いのももちろんのこと承知している。

自分は何がしたいのか?

その質問に答えるのは難しい

…というか、その質問に素直に答えるとすれば、「自分がしたいことはない」と答えれば良いのかもしれない。

もちろん、昼の食事は何を食べたいか?に答えるのと同じように、その時々、やろうと思うことはある。しかしそれは、何がしたいのか?の答えにはならないと思ってしまう自分。

 それを前提に、あらためて自分がしたいこと、自分がやりたいと思うことをあえて言葉にするとすれば、自分の興味の対象は常に変化し続けてはいる。自分はその変化し続ける様について、たとえそれが一瞬であったとしても、どうにかしてそれを捉えてみたい。

それを捉えるために必要だと思うなら、自分はそれが“やってみたい”と思うし、それをするために何らかの経験が足りないのだとすれば、その足りないことを出来るようになりたいと思う。

自分が捉えたいと思う常に変化するその様とはほんの一瞬の出来事でしかないのだとしても、自分はそれを捉えてみたい。

それは移動不可能という特徴を持ちながらも、この世に生きるものすべてが共有できる可能性あるもの。

かつて、東京都国立市の住宅街に置いていたPlanterCottageと名付けた百葉箱を、いま自分は、長野市の善光寺の門前町の裏路地に置いている。

この場所にmazekozeと名付けた百葉箱を置いて既に15年。

自分は仕事によってではなく、この百葉箱があることによってこの世を生きることが出来ていると思うことは多い。

Gallery MAZEKOZE は現在、

「渡辺一枝 と たぁくらたぁな仲間たち展」を開催中です。

今日、23日も12時から17時まで。

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