7~8年前に、MAZEKOZEと自宅とを分けてから、徒歩20分程住宅街に暮らしている。
この辺りには古くから、市・県・公団の大きな集合住宅があるためか、スーパーをはじめとして、総合病院並みの各種病院、薬局、24h営業のコンビニ、ドラッグストアー、美容室…と、選り好みさえしなければ便利さには事欠かない。
そのいっぽう、MAZEKOZEがある門前町のような雰囲気はほぼ無く、何処にでもある風景といった感じだけれど、そもそも、日々の暮らしにとっては門前町だの城下町だの宿場町だの…といった、いわゆる“映えるまちなみ”である必要はないし、たまに「意外に普通の家に暮らしているんですね…」と言われて、その言葉に何ら悪気が無いだろうけれど、美術家だのArtistという生き方とはそういうものなのだろうな…と思ったりもする。
…というか、よほど注意していない限り使うことの多い「普通」ではあるけれど、その言葉には責任の曖昧さというか、「自分だけではない、多くの人が思っていると同じく」といった、話の前に、「普通は…」と付け加えることによって、多くの人を自分の味方に付けることが出来てしまう魔法の言葉なのだ。
普通だったらそうする…とか、普通はそうしない…とか。
普通とは「多数」であることの強調であり、私たちは日常の何気ない会話の中で、かなり無意識にこの多数性を使い分けている。
これは人間が集団によって生きる生き物ゆえの行動であり、人間が生きるだめに必要な集団性を保つために必要な言葉の選択、その使い方であると考えることは出来るのか。
「普通」とは、言葉に表出した人間という生命の本質の現れなのか。
だとすれば、普通ではない とはいったいどういった状態であるのか。
そもそも言葉とは何か?
何故、人間は言葉を選んだのか。
言葉を選んだ代わりに失ったものがあるとすれは、それは何か。
絵や彫刻、音楽…といった広く表現と呼ばれるものは、言葉と何が違うのか?
…それとも本質的なことからすれば言葉と表現は同じなのか?。
表現は言葉になり得るのか。
言葉は表現なのか。
言葉が表現になり得るとすれば、日常で用いる言葉と表現になり得る言葉との間にはどんな違いがあるのか。
生まれたばかりの幼い子供が、言葉を真似、言葉を選び取ってゆくのは何故か。
もしそこで言葉が選び取れなかったとしたら、集団性は阻害されるのか。
多数であることがどれだけ重要であるのか。
自分の子供時代。過激派とヒッピーにはなってはいけない…と言っていた母は晩年になってからは、普通に生きて欲しいと言うようになっていた。
母にとって美術家やArtistは、過激派なのかヒッピーなのか。
それとも母が願った普通の生き方なのか…。

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