地元新聞(信濃毎日新聞)の取材を受け、今日の朝刊・地域面でCafé&Gallery MAZEKOZEが紹介する記事が掲載された。
昭和生まれのArtist、美術家である自分は、基本的にはマスメディアの取材は断るのがお決まり?だと思い込んでしまっているのだけれど、別件で出会った若い女性記者のことが気に入ってしまった自分は、まんまと彼女の取材依頼に応じてしまったのだ(笑)
…というのは半分冗談だけれど、自分は新聞の定期購読はしていないし、もう何年も新聞すら読んでいないのだけれど、ちょうど定期健診だった妻を病院まで送り、そのまま院内のコンビニで新聞とコーヒーを買った。
病院は好きじゃない…というか大嫌いだけれど、何となく、ただそれだけのことがやけに新鮮で、車に戻って新聞記事を読みながら、既にこの場づくりが15年になること、MAZEKOZEという百葉箱から見える社会のこと、そうした社会の変化に応じてMAZEKOZEという場がこの先歩もうとしている道が何となく見えてくること…について考えている。
その昔、何が何でも地元を出て東京へ行きたかった自分はその東京で何と出会い、感じ、何を考えたのか…。その質問に答えるとすればそれがMAZEKOZEの“いま”であり、そのいまによって自分は間違いなくこの先の進むべき道を決める。
そうやって、これまでもいつだって行きあたりばったりだった。
一寸先は闇、…というよりは、暗闇から抜け出た瞬間のようにいまはまだ眩しすぎて殆ど見えていないだけ…しばらくすれば見えてくる、いまはそんな感じ。
長年暮らした東京都国立市から、生まれ育った長野市へと家族の暮らしの場と活動の拠点を移動し、CafeMAZEKOZEをはじめたその時から何となく、それでいて途切れることなく続けてきたGallery的な展開(展覧会の場)は、年が経つに連れて次第にArt性が強くなってきたとも言える。
その理由は明確で、一人娘の成長と共に自分や妻もまた成長しているからに他ならない。
東京は自分に対して美術・Artという生き方があるということについて気付かせた場所であると同時に、美術・Artを生き方として選択するのであれば、自分は、いま・ここ で何をすべきなのかについて考えることこそが最も大切であると気付かせてくれた場所。
美術家・Artistにとって作品とは、その時々の自分自身をあえて客観的に見る、捉えるための有効な手段であるとは思うものの、それは美術家・Artistにとっての主たる目的ということではないと自分は考えている。
記事となった取材では、そのあたりのことをあれこれ話してしまって、記事にするのは難しいだろうな…と思っていたのだけれど、流石、記者、とても上手にそれでいて間違ったことなく記事としてまとまっていた。
MAZEKOZEのいま が注目しているのは、『自己治癒力』英語では resilience
新型コロナウィルスが蔓延している最中に、何度か目や耳にしたことがあるこの用語は、元々は心理学用語だったらしい。
美術とは、Artとは何かについて考えた時、そこには少なからず自己治癒力と何らかの関係があるであろうことはコロナ渦になる以前から常々感じていたし、いまもそれは変わらない。
でも、重要なことは、あくまでも美術作品やArt作品そのものには他者の病気を治す力は無い。
自己治癒力とは、自己の中の何らかが治癒力として働き、それによって自己が正常な状態へと回復してゆくということ。
美術作品やArt作品そのものが自己治癒力に対して何らかの働きかけとして機能することはあるけれど、美術やArtはあくまでも、自己の外側、外界に対するきっかけ、扉でしかなく、それそのものが治癒力ということではないと思っている。
ようするに、美術やArtは自己に対する気付きのきっかけでしかなく、「自分はいま紛れもなく感じている…自分以外の何かを」
その気付きこそが何よりも重要。
その気付きとして美術やArtが有効であることは否定出来ないものの、自分が何かを感じているという意識が美術やArtに留まったままでは本当の意味での自己治癒力には繋がらない。
美術やArtの重要性は自分以外の何らかの存在が自分を生かしていることに対する気付きをもたらすもの…だと自分は思っている。
MAZEKOZEのいまを感じつつ、いま朧げに見えてきているこの先へと続く道は、Artistが自分自身の治癒力としてArtを用いるその力を、他者へと解放するために必要な道筋をつくること。
具体的には、ArtistResidenceとして機能する場所…、Artistが制作する場の共有とGalleryMAZEKOZEという場を繋げたい。
もっと具体的に言えば、自分のアトリエをArtistの制作の場として開放することをつうじて、Artist同士が対話するための場がつくりたい。
Artistが、いまをどう捉え、何を思っているのかを語ることが出来ないまのままでは、この社会に生きる人誰しもが、本当に感じていることについて語れないのではないか…。
自分をはじめ、美術家やArtistには、この社会を覆う、言いようのない閉塞感をもたらしてしまっていることに対する責任があるのではないか…。
明日からはしばらくの間、佐渡島に行って仕事。
佐渡から戻ったらもう夏かな。
美術やArtを美術家やArtist、専門家から開放したい…。
この社会に生きる誰もが、社会をつくることの出来る彫刻家であるべきだと思います。

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