自分もメンバーの一人として加わっている、北アルプス広葉樹活用研究会が主催するイベント開催のため、制作中の佐渡の現場から一時的に長野市へと戻って来ている。
たった半月しか経っていないので、懐かしさは微塵もないけれど、建物の多さと自動車の多さは比較するまでもなく、人だけが暮らすためだけにつくられた、都市と言うに相応しい場所のようだ。
街には木がない…周囲を見渡せば山はあるし木だってあるのに…。
街の中心部の道路脇には街路樹が植えられてはいるけれど、いったいそれは何のために植えられているのか…。
自然保護だとか環境保全という言葉は好きじゃない。SDGsと聞くと、自分の中の天邪鬼が前にしゃしゃり出て来ようとして、そいつを押さえつけないと要らぬ誤解を招きかねないから大変だ。
…そうやって、こんな自分ではあっても、この社会に生きるしかない以上は、全面には大人な自分を出してはいるものの、いつもいつも大人性を前面に出したままいるのは極めて不健全だと思っているし、誰も読まない…ああ、また言ってるよ…、だいたいあんたは何様なんだよ…と思われたとしても、こうやって何とかバランスを保つのが自分のこの世の生き方だということ。
この社会は社会性という意味をすっかりはき違えてしまっているのではないか…と思いつつも、自分自身が社会性に溺れそうだ。
そもそも、自然は保護するものではないし、環境という言葉にしても人間を中心に据え、その周辺の人間にとっての生存可能な条件を整えるというニュアンスが強い。
おい!人間!!思いあがるのもいい加減にしろ!…と言いたい。
人間なんかに自然を保護することは出来ないし、人間がこの世に生きていられるのは自然という本質が生じているからに他ならない。
…とは言え、勿論のこと、自然保護団体や環境保護に携る人々の努力は否定しないし、この社会にとって大切な役割を担ってくれていることには感謝しても感謝しきれないと思う。
そういった役割を担ってくれている人たちが国や政府に提言することもそれはそれで大切な役割だけれど…
でもね、優秀な人たち…いわゆる有識者という人たち…だけが議論して提言するだけではダメだと思うのですよ。
問題の本質はそこではない。
自然とはいったいどういった状態のことを言うのか?何をいったいどやって保護すると言うのか?
そういったことについて、自ら考えることもしないで、自然保護だとか環境保全は大切だとか言う言葉だけに乗っかって、国や県や市や…上の人がそう言っているから…と、言われたとおり、決まりだけを守って従うだけ…といったいまの社会の状態とは、結局のところ、面倒くさい問題は人に押し付け、自分は結局のところ何もせず、良いとこ取りしている…ということ。
こういった社会状況はかなりやばい。
このままで行けば、街全体をイノシシやシカが入れないようにフェンスで覆うしか無くなってしまいまう…。
進撃の巨人だよ。城壁だよ。
…いやいや、マジで。
大谷の打率もホームランも凄いけど、そうやってTV見ている間にも、ほらっ!
〇〇でイノシシが目撃されました。付近の方は十分注意してください! だってさ。
…ねえ、どうするの?
何もしないの?
イノシシ来るよ。
たまには少し、ゆるっと、まじめに考えてみませんか?
※画像はネットからお借りしました。投稿本文とは ほぼ 関係ありません。


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