佐渡島に戻って2週間。
制作はいまのところ意外と順調なので、残りの作業はおよそ半月ほど…といったところか。
自分…RIKI-TRIBALが仕事をする上での基本的条件は、犬を連れて行けない現場の仕事はしない…なので、ここ佐渡にもお守り犬のRainが同行。
6月に入ってさらに日の出時刻=起床時刻=散歩のスタート時間が早くなり、そんな日課は長野と同じだけれど、自分が暮らす長野市の中心部に比較すれば、この季節の佐渡に充満する自然が放つ芳香ははるかに強いように感じる。
とは言え、今回の仕事ではじめて佐渡島に来るまで、この島に対して流刑と金山…というイメージぐらいしか持っていなかった…、というか、罪人に金を掘らせていた島…ぐらいしか。
しかし、ここに来てそんな自分の中のイメージは間違いとまでは言えないものの誤りがあることを知った。
本州と地続きであった土地が、地殻変動や火山活動による地形の変化で本州から離れたのは約1,600万年前頃、約200万年前頃には海底地盤の圧縮運動エネルギーにより地面が隆起し、大佐渡山地と小佐渡丘陵が国中平野をはさむ現在の地形になったと考えられているものの、地震など地殻変動によって現在も佐渡島の隆起は継続しているのだそうだ。
佐渡島には縄文の遺跡が多数出土していて、古事記には既に「佐度島(さどのしま)」と記されている。
大化の改新以後には律令国家の佐渡が成立し、8世紀以前には佐渡国が置かれていることからすれば、少なくとも佐渡島の文化的歴史は7世紀~8世紀頃に始まると考えて良さそうだが、この頃から既に佐渡島は配流(流刑)の地に指定されいて、その最も古い記録としては、万葉歌人・穂積朝臣老(ほづみのあそみおゆ)が、722年から740年までの18年間を佐渡島で暮らしたと書かれているということ。
そして佐渡島への流刑で最も有名なのは、第84代の天皇に即位した順徳天皇の配流か。
その父、後鳥羽上皇による鎌倉幕府の打倒計画に参画し、「承久の乱」を引き起こしたものの、鎌倉幕府の執権であった北条義時を中心とする幕府軍によって鎮圧され、倒幕は失敗に終わる。その後、乱の首謀者の一人として1222年に佐渡島へと配流され、22年間後の46歳、佐渡島で崩御。島には多くの遺跡や伝説が残されている。
1271年には、日蓮宗の宗祖である日蓮聖人が半年間。
1298年には、、鎌倉時代後期の公卿・歌人であった、京極 為兼(きょうごく ためかね)
1324年には、公卿・儒学者・茶人の日野資朝(ひのすけとも)が朝廷の監視機関である六波羅探題に倒幕計画を疑われ、審理の結果、有罪とも言えないが無罪とも言えないとして流刑。(1332年、佐渡で処刑)
室町幕府の3代将軍足利義満の寵愛を受け、能楽を大成させた世阿弥は、6代将軍足利義教の怒りにふれ、1434年、72歳の時に佐渡に流された(罪は不明)ものの、島での時間を有意義に過ごすべく、世阿弥は舞台演劇である「能」を完成させたと言われ、現在も祭りや祝い事の際には、島の至る所で能が行われている。
佐渡島へと流刑された人々の中には様々な罪人とされた人々がいたとは言え、この頃(奈良時代~室町時代頃まで)は、佐渡という場所の文化にとって貴族や知識人が多いことは注目すべき点。
その影響が現在に至るまで続いていて、そうした歴史文化背景がこの島の現在にとっても重要なポイントであることが理解出来る。
自分はこの歳になってようやく佐渡島のことをほんの少しだけ知ることになったものの、それはもしかすると、自分だけではない、いまの日本人の多くが自分と同じ…。
佐渡島の歴史やここに育まれてきた文化があまり知られていないのは、この島の歴史ゆえ…。
この島の歴史と文化が、常にこの国の性質と現状に関係している…と言うか、中央集権による国の支配のしくみが、もっと言えば、「権力の構造」と深く関係しているからなのではないか。
そうしたことを考える上で忘れてはならないのは、流刑の島としての位置と流刑人を受け入れた佐渡に暮らす人々はそのことをどう感じ、思っていたのか?という点ではないか。
歴史というものは基本的に時の権力者の意向に従っているもの…。
それを考えれば、現在という完璧な中央集権の時代に於いて語られている歴史というものは、その都合で歪曲されていると考えるべきであって、そうした影響が、毎年1000人という島の人口の減少であり、中でも、若者の離島率が高いという点とこの島の歴史の伝わり方、語り方はしっかり繋がっていると自分は思っている。
…、と、ここまで書いたところで、大きな地震があった。
このあたりの揺れは震度4程度。震源は輪島、珠洲市あたりだということだが、大きな被害がないことを祈るのみ。
投稿の続きは次回。



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