隙間・余白

佐渡に来てから1ヵ月半、途中、長野に5日ほど一時帰郷したものの、ここでの暮らしも随分と慣れた。今月の終わり、6月29日は、現在GalleryMAZEKOZEで開催中の展覧会作家・ササキリョウタさんとのGalleryトークがあるので、とにかくその日には確実に長野に戻らなければならない。残すところちょうど2週間。とても良い感じで制作は進んでいるものの、残り2週間で完成にいたれるかどうか?…と言ったところ。若干の焦りはあるけれど、まぁいつものこと、何とかなるでしょう。

一昨日、日曜日は現場作業は休み。

なので、久しぶりにパソコンに向かってキーボードを叩いてみたり、家中に散乱するRainの抜け毛の掃除をしたりしつつ、今日は新潟の友人から紹介してもらった、佐渡で会ってみたら良いかも?という人に会うことが出来た。

…で、本当に驚いた…というか、久しぶりに心が躍った…というか、いま、まさに自分が会うべき人…というか、振り切ってる…素敵な…と言うよりは、その肝の座り方が半端ない、かっこいい女性だった。

彼女と話しながら、自分はいま何処にいてこの先何処に向かおうとしているのか思いつつ…感じたことは色々あって…。これについての記述はとても長くなりそうなのでまた次にでも。

佐渡島での暮らしに慣れた…とは言ったものの、ここに来てから一日の時間配分がどうも上手く行かないというか、一日の大半が制作と食事に費やされているような感じ。

本を読むことも殆ど出来ていないし、腰を据えてパソコンに向かって文字を打つこともあまり出来ていない。

普段の日常が妻と犬との二人暮らしに比較すれば、ここの暮らしはかなり濃密だ。

基本的には人間が好きとは言えない自分にとって、仕事がきっかけで気の合う仲間とのと共同で生活とはいえ、この経験は通常モードの日常生活にはない時間。

こういったスタイル…自宅からは通えない、離れた土地に長く滞在して制作するものづくり…で制作することは今までも多々行って来たけれど、佐渡島という島ゆえの独自性も多少は影響しているのか、今回の経験は今後の自分の行動にかなり大きく影響しそうな気がしている。

これからの時代、良くも悪くも社会は今以上さらに細分化がすすむはずだ。となるとすれば、これまであったような共同性や人々の関係性が通用しなくなってしまったり希薄になるのかもしれない。そうした現れが農山村の高齢化や人口減少ではあるものの、その一方で、限られた関係性が今以上に濃密になる…というか、internet上の様々な仕組みや世界情勢の変化に後押しされ、特定個人への依存度が増すのではないか。現代の社会状況を様々な観点から想像すれば、あらゆる側面に於いて格差が増す。格差が増せば増すほどに、経済の低迷はもはや個人の努力ではどうにもならないと思う人が激増し、

より強いもの=大企業や国家…といったものへの依存度が増せば増すほどに、強いものの弱い者への管理が強まるのであろう…。

こういったことを言い出すと、またディストピア好きなあんたの妄想だろ…と言われるかもしれいし、ネガティブだとか悲観的だと思われるだろうけれど、いま・ここ から想像するこれからのこうした状況は、社会のマジョリティーの側から考えれば、深刻な問題ではあるにしても、自分たちのような生き方を選択する者たち(広い意味ではマイノリティー側)にとっては、ようやく吹き始めた追い風なのかもしれない…と思っている。

もちろん、深刻な社会問題を嘲笑うつもりはないけれど、でも、もはや既存社会のありとあらゆる仕組みは限界に達しているのは明らかだし、もはや道楽者の思考であれ、そこにある可能性を押し広げる何らかの努力をしなければ、いずれ船は沈没してしまうやもしれない。

もう少し自分事に近付ければ、いまの社会の仕組みの中では自分のようなスタイルの“ものづくり”を分類する的確に表現する言葉はみつからない。

美術家などと名乗ってみても、火に油を注ぐようなもの。

生きるためには何らかで働かなければならないし、傍から見れば大工仕事的だったり、左官仕事的だったりするため、とりあえず職人と呼ばれたりはするけれど、世間で通用する職人さん達からすれば、一緒にしないでくれ と思われても当然だと思う。

元はと言えば、いまのようなスタイルを目指したというよりは…流れ着いた、というか、隙間ばかり通ってきたら此処にたどり着いたというところか。

でも考えてみれば、これも結局のところ、常に社会の選択する道筋とと自分が選択する道筋との関係について考えた結果とも言えるのではないか…。

似て非なるものであるからと言って、既存の職人の仕組みを否定するつもりはまったくないし、社会そのものの仕組みについても同じ。

ただ、この社会は少々きつく固まりすぎ、固く考え過ぎているのではないか…とは思う。

異なるモノが繋がりあうためには、ある程度の余白や隙間が必要なのだ。

佐渡島という海という隔たりによって本土から離れたここに居て思うことは、この余白の必要性、重要性に気付いていれば、世界遺産登録なんてことを考える必要もないのかもしれないな…ということ。

まぁ、自分はもはや本通りには戻れない…というか、戻るつもりもないのだけれど…。

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