朝、自分の部屋の窓の外にあるタイサンボク(マグノリア)の葉にあたる雨音で目が覚めた。
蕾はあるけれど、佐渡島を出るまでにはまだ咲きそうにないのが少し残念。
未だ肌寒い頃に佐渡島入りしたはずが、あっという間に夏至が過ぎてようやく梅雨入りしたのか。今日の佐渡は朝から雨模様だったけれど、先週はじめてお会いした、一般社団法人・あるもんで山、が現在制作中の「古道具と手仕事の宿・ねまりや」さんに、自分が佐渡にいる間に会っておきたいと思っていたまま未だ会えていなかった二人が知り合いだということで、その方々にもお会いしながらの再度の訪問。
…で、何と言ったら良いのか…。
この場所が放つ圧倒的なパワーというか、自分が感じているその魅力を言葉にすることは実に難しいのだけれど、いままで相当色々な変態?的な建物を見て来た自分からして、とにかく、この場に満ちている「ヴァナキュラー(vernacular)」度は相当なものとだけは断言出来る。
「ヴァナキュラー(vernacular)」という言葉は、土着の、その土地固有の、日常的な話し言葉の、…などといった意味を持つ。
自分はこの言葉の持つ意味を知って意識するようになったわけではないけれど、長いことものづくりを続ける中で、この言葉が自分の奥底にある何か大切なものに触れるためのキーワード…というか、自分の進むべき方向性を見極める上でとても重要な意味を持つ言葉であると自覚するようになった。
とりわけ、vernacularが持つ「話し言葉の」というニュアンスは特徴的であって、それを建築にこの言葉の意味をあてはめるとすれば、「書き言葉」にあたる設計図が存在しないということ、…幾世代にも渡る経験の蓄積が口承によって伝えられてきたということになる。
気が付けば、Artと建築の狭間を行ったり来たりしつつ、現在のように地元を離れて仕事する…といった形態を取ることが多い自分ではあるけれど、そうした仕事ではあっても出来る限りvernacularでありたいと思いつつ、でも、そこで若干の疑問というか、あきらめというか、自分がそう思ってはいたとしても、それはvernacularではなく、単にdesignの枠組みから出れていないではないか…。
そういった気持ちをいつも少なからず持っている。
文化人類学者の今福龍太は、著書『クレオール主義』(青土社、1991、158頁)の中、ヴァナキュラーについて、
「ある地域やある人々やある時代に散見されるが、しかし、伝統や規範の本質性や純粋性、地域的完結性からつねにずれて移動していくような、文化的特質や営為の方向性をとらえるための概念」であるとして、その定義は特定の「質」ではなく「方向性」においてなされるとしている。
自分はこの主張を知って個人的に安心した、というか、現代社会に於いてヴァナキュラーを、土着の、その土地固有の、日常的な話し言葉の、…という意味合いで理解しようとすればするほどに、ヴァナキュラーが単に過去の遺物としての貴重性に片重されてしまうし、貴重性だとか優れているという点にばかりが注目されてしまうと、こうした流れはいずれ必ずコマーシャルによって絡み取られていってしまうのではないか…。
自分が長いことものづくりを続ける中で、この言葉が自分の奥底にある何か大切なものに触れるためのキーワード…というか、自分の進むべき方向性を見極める上でとても重要な意味を持つ言葉であると自覚するようになったのは、ヴァナキュラーという言葉が指し示す先にあるものはそもそも、有名だとか無名だとか、貴重だとかありふれているだとか、優れているだとか劣っているとかでない、「いま・ここ」にしか生きざるを得ない人間が、伝統や規範の本質性や純粋性、地域的完結性をつうじて、「いま・ここ」を如何に捉え、そことの関係を如何に築こうとしているのか…。
伝統に「いま・ここ」で触れればそこでは当然のこと、伝統や純粋性、完結性との「ずれ」が生じはするものの、本来その「ずれ」こそがヴァナキュラーが「いま・ここ」との関係性とって最も重要かつ大切なポイントであるはずだ。
そういったことについて考えながら、佐渡島の伝統や規範の本質性や純粋性、地域的完結性にすいて殆ど何も知らない自分が、この場所でヴァナキュラーな方向性を持った仕事を成すことが出来るのか…。
否、むしろ、いまはまだ何も知らないからこそ、佐渡島と自分との間にヴァナキュラーな関係性を築くことが出来るのではないか…。
自分が「いま・ここ」で出来ることはほんの僅かしか思い付かないけれど、佐渡島に流れ着く流木を広い集め空間の材料にすること。佐渡の山の粘土、七浦海岸の石や砂の色をそのまま壁の材料として用いること。
それもまたヴァナキュラーであることに違いはない…
いまはそう思っている。





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