夏休み、お盆休み…と、世間はまさに夏本番中で、この時期の集客を見込んだイベントが目白押しだけれど、近頃益々、人が大勢集まるところが苦手になってしまった自分は、こうした時期には一段と、人のいない、風通しの良い場所で本でも読んで過ごしたいという気持ちが増す。
日中の予想最高気温が35度を下回わるかどうかが境目になってしまっているような現状からすれば、地球規模の気温上昇化傾向は否定出来ない事実だろうし、この気温上昇には多少なりとも人間生活に起因するCO2排出が影響しているであろうことについて否定しないまでも、そこで叫ばれるCO2削減の大合唱に対して、どこか胡散臭さを感じずにはいられない自分。
でも、そうしたことを言った途端に、「ああ…あなたはそっち系なんですね」とか、「それって陰謀論ですよね」とか言われかねない世間であることは実はこの暑さよりもずっと深刻なことではないかと思っている…。
何かしらの趣味嗜好の共通性を指して「〇〇系」で一まとめに括る…といった傾向は、既に何十年も前からあったものの、ここ数年…、特に新型感染症が世界的に蔓延した頃から世間で多く聞かれるようになったのが『陰謀論』というフレーズ、そして陰謀を語る人々を指す「陰謀論者」という括り。その括り方は「〇〇系」のそれとは明らかに異なるものだと思う。
かつて、1960年代から1970年代にかけての学生運動のように、権威や権力に対する意思表示が結果的に集団を形成し、そうした集団の行動が社会機能を混乱させたことは事実であったにしても、社会の在り方に対する考え方の主張そのものは現在の政党のそれと何ら変わらないし、そうした主張が国家権力の在り方に疑問を呈すからと言って、そういった主張が「陰謀論」とは言われなかったはすだ。
…
自分が暑さよりもずっと深刻だと思いつつ、興味を持って考えていることは、陰謀や陰謀論とは何か?という言葉に意味についてでは無くて、何故?このタイミングに陰謀や陰謀論といった言葉が世間に於いて、しかも急速に一般化されるようになったのか?ということ。
…というか、このタイミングで…とは言ったものの、この言葉がここ数年の間に急速に用いられるようになった背景には、2011年3・11…福島第一原発事故のその後が極めて深く関係していると思っている。
結論から言えば、ある視点から見て敵対的な人・グループによる秘密裏の計画が「陰謀」と呼ばれることからすれば、行政府や国家にとって都合の悪い事実、人に対して「陰謀」という言葉をあてがうことによって、事実を隠蔽することを可能にしてしまったのではないか…と。
「陰謀」という言葉そのものはプロパガンダではないにしても、行政府や国家といった権力にとって都合の悪いことに対して、「陰謀」というレッテル張りすることによって、権力の嘘が正当化される布石とされてきたのではないか…と。
…原発事故以降、言葉はなんと軽くなってしまったことだろう。「直ちに健康に影響はありません」。繰り返された嘘に世間は感覚を麻痺させられてしまった。
こうして言葉はかるくなってしまったばかりか、意味をすり替えられ、真逆の意味を持つようになってしまった。…
地元、[信州発]産直泥つきマガジン・たぁくらたぁ最新号・63号に、作家・渡辺一枝さんの記事はこう書き始めている。
自分は、言葉の意味をすり替え、本来の言葉に真逆の意味を持たせ、そしてその言葉を信用させるためには、国民の正常な感覚を麻痺させることこそが必要。そうした企みの全体がプロパガンダと呼ばれるものではあるけれど、そのプロパガンダの効力を高めるための強力な麻酔が「陰謀」という言葉の利用なのではないかと考えている。
「陰謀」とは、本来、人に知られないように練る計画のことを指すものの、その計画を練っている側からすればそれは「陰謀」とは言わずに計画や作戦 などと呼ぶ。
政府による様々な国家プロジェクト計画は、「成長戦略」と呼ばれ、こと、福島に於いては2014年から「東日本大震災及び原子力災害によって失われた浜通り地域等の産業を回復するために、新たな産業基盤の構築を目指す国家プロジェクト」として福島イノベーション・コースト構想が打ち出されている。
注意すべきは、「言葉の持つ印象」ではないか。
もちろんのこと、言葉に意味があるのは当然だけれど、言葉を意味として捉える他に、言葉には印象があって、その印象によって受け取る印象が異なる点は重要だ。
短歌や俳句、音楽、文学…など、言葉による表現にとっては、正にそうした言葉が持つ印象がことさら重要で、それによって表現全体に奥行きが生じる。
これと同じく、まったく同じ事象であったとしても計画や作戦、戦略と表現といった言葉を用いれば受け入れられ易く、「陰謀」という言葉を用いれば、良くない とか、悪い といったイメージが伴なって拒絶され易い…。
政府・権力の側からすれば、こうした国家成長戦略に対して異を唱える言動に対して「陰謀」という言葉を重ね合わせることによって、世間がイメージするであろう、陰謀は良くない、陰謀は悪い…といった効果を巧みに操作しているのではないか…。
いくら強引な政府権力だとしても、露骨な言論統制は国民の反感を買うことぐらいは織り込み済みだろうし、戦略の実現のために最も重要なことは、言葉の持つ印象、その印象を巧みに操作することであると考えていても当然だ。
そうしたことについて考えれば、いま、私たちにとっての最大の重要性は、言葉が持つ本当の意味を知ることであり、言葉に持つ重さ、奥行きを感じることが、この社会の歪みを修正し得る最も有効な手立てであり、近道だと思うのだ。
単にキャッチーなフレーズだけに慣らされてしまわず、言葉が持つ意味、言葉が何とどう関係しているのか、それぞれの言葉が何処から生まれたかについて、もっと深く知り考える必要がある。
このところ、あらためて「場の役割」についてあれこれ考えている自分にとって、空間が場へと変容するために、人と人が言葉を交わすことは、ことさら大切だと思う今日この頃。
※画像はイメージです。
~自分にとって陰謀と言えばやはりコレ…

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