「言葉」

人間が意思を伝達するための方法 「言語」

言語は、ある特定の集団の中での約束や規則に基づく記号体系である以上、受け取った言語を理解するためには、勿論のことその言語の基となる約束や規則を知っておかなければならない。

しかしそれ以上に重要なことは、その言語を必要としたのは誰であるのか。何処であるのか。何時なのか といった言語の背景であって、例えば、いまから200年前の江戸時代に江戸の大工が使っていたであろう言葉を現代の日本人が理解することは極めて難しいであろうということ。

通常、明治時代以降もしくは第二次世界大戦以後に用いられている日本語を現代日本語と呼ぶそうだが、現代語だとしても、その中には高校生言葉やギャル言葉をはじめ、近年の特徴としてネット言葉といった、より細分化された集団の中で用いられる言葉が多数あることを思えば、私たちが何気なく使ったり聞いたりする言葉とは、最もリアルに社会の現象を捉えていると言える。

「Kawaii(カワイイ)」は、21世紀に入って世界に最も広まった日本語と言われるほど世界各国で通用する言葉なのだそうだ。

日本のアニメは世界各国でとても人気があって、そうした日本のアニメを象徴するのが「可愛い」という日本語が示す概念だ。

そうした概念がアニメそのものをはじめ、アートやファッションによって世界へと積極的、大量に輸出・発信されるようになったことで、世界各国の言語の「可愛い」に相当する言葉が持つ意味とは微妙に異なるニュアンスであることが注目され、結果、それぞれの言語では表せないニュアンスとして、「Kawaii(カワイイ)」を新しい言葉として取り入れたものと考えることが出来る。

その意味からすれば、「Kawaii」は既に日本語とは言えないけれど、それは現代日本語の中に数多くある和製英語と同じで、単にそういった例…日本語が基になる世界共通語が少ないということなのだが、それというのは実は、自分たちが生きる現代の社会構造上とても重要な意味が含まれていると自分は考えている。

(これについて書くと長くなり過ぎるので、また今度にでも…)

日本では、「可愛い」と世界共通語の「Kawaii」の両方が使われている。

どちらも同じ発音ではあるけれど、「Kawaii」が「可愛い」と微妙に異なるニュアンスを含んでいるというその部分こそが重要で、微妙な違いのままにすることによって、ほぼ無意識に、「Kawaii」という言葉を間に置いて互いの関係性を確認しているのではないか…。

「Kawaii」はもはや、言葉としての意味を持たない…というか、本来の言葉の持つ意味よりも、より広範囲な時間と空間上に於ける様々な関係性を示す信号…のようなもの…。

とは言え、「Kawaii」は基本的には肯定的なシチュエーションの中で使われる言葉であって、どのくらいの肯定なのか、どういった肯定なのか…それを用いる関係性こそが最も重要であって、その違いは音声によってあらわされるため、文章として「Kawaii」のニュアンスを表現することはとても難しい…。

…と、「Kawaii」についてあれこれ考えつつも、「私たちが何気なく使ったり聞いたりする言葉とは、最もリアルに社会の現象を捉えている」という観点からして、自分が最もリアルに現代社会を捉える言葉として注目しているのは、「Kawaii」ではなくて、『怖い(コワイ)』という言葉…

…というか、この言葉が使われるシチュエーションからすれば、Kawaiiと同じく、文章で「コワイ」のニュアンスを表現することは難しい。

「怖い(コワイ)」に近い言葉としては、恐ろしい、恐怖、畏怖、酷い…があるけれど、「コワイ」は、「Kawaii」とは逆の、基本的には、否定的なニュアンス、否定的なシチュエーションで使われていて、この言葉もまた、「Kawaii」と同じく、言葉としての意味を持たない…というか言葉としての重要性が薄く、本来の言葉の持つ意味よりも、より広範囲な時間と空間上に於ける様々な関係性を示す信号のようなものだ。

しかしながら、「Kawaii」とは大きく異なる点があると自分は思っていて、

先ず第一に、

・「怖い(コワイ)」は、日本でのみ通用する言葉であり概念である こと。

次に、

・「怖い(コワイ)」によって一切の関係性を遮断する こと。

ようするに、「怖い(コワイ)」=「嫌い」に近く、嫌いなものは嫌いであって、理由を述べる必要すらない…ということだ。

自分は、この「怖い(コワイ)」という言葉が持つ「関係性の遮断」といったニュアンスは、現代社会にとっての極めて特徴的な部分であり、最も懸念されることだと感じていて、外部からもたらされる何らかの話題に対して、「怖い(コワイ)」は、一切関わりたくない…考えたくない、知りたくない…という意思表示であると考えている。

この言葉を用いるのは、かつては若い世代が多かったけれど、ここ最近は、ほぼすべての年齢層で用いられるようになってきていることからして深刻さが増している。

「〇〇〇って、怖いよね…?」

「そうだね、怖いよねぇ…」

は、「〇〇〇については考えたくないよね…」、「〇〇〇のことは知らなかったことにしようね」…に近いのではないか。

自分がこの「怖い(コワイ)」に注目している理由は、「私たちが何気なく使ったり聞いたりする言葉とは、最もリアルに社会の現象を捉えている」と思っているからなのだが、

中でも最も大きな理由としては、この言葉…というか、この「怖い(コワイ」)という言葉が持つ意味がこういったニュアンスを持つことによって、知るべきことを知ろうとせずに恐ろしいことから目を背けることによって、本当に恐ろしいことを避けることが出来なくなってしまうのではないか…ということ。

「怖い(コワイ)」を最も知り尽くし、その言葉を最も巧みに利用しているのは「権力」…国家権力ではないのか。

(「怖い」を必要以上に煽り、それによって国民の思考を停止させる…という暴挙…)

この国が関係したあの戦争を、何故止めることが出来なかったのか。

福島第一原発事故とは何であるのか。

私たちはそこで何を反省し、いま何が出来るのか。

…。  

言葉とは、人間と人間だけが意思を伝達するための方法ではなく、人間が生きるこの世の全体とは何であるのかを知り、考えるためのものではないか。

言葉が人を分断し、傷つけ、殺す…手立てになってしまうのならば、少なくとも人間は他のあらゆる動物に劣っているし、もはや言葉を使うべきではない。

少なくとも、この世の全体は、「けっして怖い(コワイ)」ものではないし、この世を怖いものにしてしまっているのは、人間であるということについて気付くための言葉の重要性、必要性を強く感じる。

 ※画像はネット上からお借りしました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です