お陰様で、その後のRainは何事もなかったかのように、朝のお散歩行くぞ!起きろ!! 攻撃が再開しました。ご心配してくださりありがとうございます。
Rainがやって来てから、MAZEKOZEに訪れる人の層、というか、流れる空気感に変化が表れている。
昨年の今頃、縁があってアトリエになる建物を借りられることになったことで、倉庫状態だったMAZEKOZE1階南側半分を無くし、一階の空間は倍の広さになった。
そのついでに、壁面の一部を抜いて窓をつくったことによって、広さと明るさが大きく変わった。そこに加えてRainがもう一つの窓…というか扉になって、いままでとは違う風の通り路ができたのかもしれない…。
気が付けば自分は既にこの歳になり、だからと言って焦りだとか後悔はないものの、ここから先はいままでの人生の歩みとは少し違う領域に入ったのかも…という感覚が増している。
一言で言えばそれは、この身体を使ってこの世を生きる時間は日々減って行く…というこでもあるのだけれど、それは単に死期が近づいているということと違う。
そもそも自分は、現代社会にはびこる、死という概念そのものを疑っている。
90年代半ば以降、美術家と名のりつつも、展覧会や個展という形式を用いてこなかった自分が、2021年、2022年に個展を開催することにしたのは、自分の中に確実にありはするものの捉えきれずにいた何か…それが、「現代社会にはびこる死という概念に対する疑念」であると気付いたからだ。
そのことに気付くために随分と長い時間がかかってしまったけれど、その過程で費やした時間や行動を無駄だったとは思っていないし、もしも「場」をつくり続けるといったことをして来なかったとしたら、おそらく自分が美術家を名のることは無くなっていただろうし、作品をつくり展示する といったことの必要性も感じなくなっていたはずだ…。
「場」をつくる過程では、様々な出会いや気付きがあるのだけれど、例えば、人文主義地理学の研究者である、イーフー・トゥアン(Yi-Fu Tuan、段 義孚)が、著書『Space and Place : The Perspective of Experience』において、「空間にはある場所から別の場所への運動が必要であり、同様に、場所には場所となるべき空間が必要だ」と述べているそのことは、自分の場づくりにとっての大きな指針となっていて、現在、私たちがつくり続けている、Café&Gallery MAZEKOZEとは、空間と場所との関係性は常に繋がり合っているということを実践、証明するためであるとも言える。
死という概念そのものに対して疑念を抱きつつ、死はけっして終わりではないと心の底から思っている自分が、この社会に対して生きづらさを感じるのは、場所から場所への運動と、場所となるべき空間に対して、「死という概念」が歪を生じさせている…と考えているからだ。
死とは一方向性を持った運動によってもたらされる消失点では無く、場所から場所へと移動する過程における一地点に過ぎない。
空間はその運動にとって極めて重要であるけれど、私たちにはそうしたことを感覚として実感できる「場」が必要で、そうした「場」をつくることによって、現代社会を覆い尽くす死という概念がもたらす支配から解放されるのではないだろうか…。
昨日、Rainの体調の悪化から、犬や猫…といった声の小さなものたち(言葉持たぬものたち)の命が、人間中心の社会構造によって支配されているということについて触れたけれど、それは、生命とは何かという答えのない疑問に対して、私たちはそれを考え続けなければならないという責任を放棄してしまっていやしないか…ということでもあって、なぜそうしたことが起こってしまうのか?について考えた時、そこにはこの社会にはびこる「死という概念」があるのではないか…と考えているからだ。
私たちはその概念を疑わず、知らず知らずのうちに信じ込まされてしまうことによって、自ら考えることを放棄してしまう…。そうなることによって結果的に、「死」という誰もが避けれない事実を遠ざけることが可能になると同時に、支配者による都合優先の社会構造が加速する…。
福島第一原発事故がもたらしてしまった現実、この国がが抱えたままの歪にしても、私たちが「死といういう概念」を疑わず、その概念によって支配されているからではないか…と自分は思っている。

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