アメリカのアメリカの映画監督ニナ・メンケスが、「ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー」の中で語るその言葉が「現代」を鋭く語っているにしても、はたして、その言葉を聞いた人のどのくらいがそこから いま・ここ を想像し、この先の社会を創造することが出来るだろうか…。
女性たちが対峙する内面世界や、孤独、暴力といったテーマを扱ってきたメンケスの劇映画2本とドキュメンタリー1本が今年、日本で初公開されていて、昨日、上田市「映劇」での上映最終日ギリギリに(…このところ上映最終日というのが多い…)2022年のドキュメンタリー「ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー」を観ることが出来た。
メンケス監督自身が様々な映画クリップを観客に見せながら、映画における“Male Gaze=男性のまなざし”の問題を解き明かしてゆく…といった内容。現代における女性が置かれている位置が見てとれることからしてフェミニズム的視点を多分に感じ取れるドキュメンタリー。
先ずもって自分は、フェミニズムの主義主張の多くを支持するといった立ち位置にあるけれど、そうした前提を踏まえた上で、そこ(フェミニズム)で語られる問題が、ニナ・メンケスが言うところの、“男性のまなざし”が普通であることに疑いの余地のない社会と深く関係しているとは言え、それは単にこの問題の表面の層に過ぎないのではないか考えている。
とは言え、メンケス監督が再三にわたり重要性を説く「視覚言語」は現代社会の成立にとって極めて重要な役割を果たしていて、その意味からすれば、映画をはじめとする視覚言語を扱うエンターテイメントがこのことに対して真剣に向き合うかどうかが社会全体のこれからに深く影響することは間違いないと思う。
一方、自分自身の関心は、“Male Gaze=男性のまなざし”が、資本主義社会の原動力となってしまっていて、それが雇用均等機会を奪ったり、暴力やレイプ、差別…といった事実へと繋がっていると解っていながら、何故、社会は放置し続けてしまうのか という点にあって、さらに言えば、ここを放置、あるいは容認せざるを得ない状態へと移行する過程に於いて、人間の想像力と創造性が歪曲させられてしまっているのではないか…、その過程で社会にいったい何があったのかに強い関心がある。
そこには、“Male Gaze=男性のまなざし”があり、これによって人間の意識の多様性が阻害され、一定の思惑に基づいた方向性へと人の意識が向けられ、変化していったのではないか…。
そうだとすれば、“Male Gaze=男性のまなざし”そのものが悪いということでは無くて、人間の意識を歪曲させるためにそれが用いられたことそのこと自体に問題があるということであって、フェミニズムという主張は”男性のまなざし”が敵であるとは言っていない。
別の言い方をすれば、社会は“Male Gaze=男性のまなざし”というプロパガンダによって社会全体の意識をある一定の方向へ向けられてしまったと考えることが出来るし、だとすれば、この問題の本質は、プロパガンダであるとも言えるのではないだろうか…。
とは言え、現代社会が、自分自身の意識がプロパガンダによって方向付けされていると疑っている人が、この社会にはいったいどのくらいいるだろうか…。
あなたの意識は操作されているよ…と言われて、直ぐに納得する人はまずいないと思う…。
幸か不幸か、自分は、Artに関わることによっていつしか「疑う」という癖が染みついてしまったようだ…。
でも、だからこそこの社会の中で、たとえ人がどう思おうが、人がどう思うか関係なく、「自分だけが美しいと思えるその瞬間」が何よりも貴重だと思えると同時に、その感覚を麻痺させないことに神経を集中させたいと思っている。

コメントを残す