先週金曜日の朝、叔父が亡くなったという知らせを受け、運び込まれた緊急外来に駆け付けてからというもの、慌ただしく過ぎる時間のその背後に現代社会を覆い尽くす仕組みを感じずにはいられなかった。
私たちは、社会の様々な仕組みによってスムーズに暮らし続けることが出来ている。
とは言え、それというのは、こうした仕組みによってこの社会が抱え持つ様々な面倒を回避することが出来ているということでもあって、それこそが“便利さ”であるのかもしれない。
でも…、便利さへと至る背景にあった“面倒さ”とは何であったのかについては忘れ去られてしまっているし、便利さと引き換えに失ってしまったかもしれないことがあったとしても、それについては考えないようになるに従って、便利さという仕組みは社会の隅々まで浸透して来る気がする…。
そんな、葬儀をつうじて自分が感じたあれやこれやについて、MAZEKOZEに寄ってくれていた、たぁくらたぁ編集長は、
“それもこれも皆、かつての封建制を頂点とした社会の仕組み…家族制度や村制度が弱体化したがゆえに生じたのであって、そうなることによって例えば、女性たちの苦労が軽減されたと同時に、フェミニズムの流れを後押ししたとも言えるのではないか” …と言う。
確かに、その昔はご近所総出で葬儀を執り行った…とは言え、裏方として働いていた殆どは女性たちであったことを思えば、編集長の見解も妙に納得がゆく…。
…それにしても、いまや社会が必要とする仕組みのその殆どが、経済と直結した流れの中にあるこの状況は、極めて深刻な状況であると思わざるを得ないし、そうした仕組みは、伝統やしきたりの変化と言うよりもむしろ、新しい商品という仕組みであるような気がしてならない。
経済と社会制度が一体化した仕組みに何ら疑問も感じないまま、それが社会のあたりまえになってゆくに従って、経済格差は否応なく拡大すると同時に、社会の(都市部と僻地のような)分断は増して行く…。
夫婦別姓問題や、同性婚といった問題がクローズアップされるようになった背景には、家制度や村制度といった社会制度と現代社会の現実との間に修正不可能な歪が生じていることが強く影響しているからだとは思うけれど、夫婦別姓や同性婚が今後、法律的に認められるかどうかはさておき、これまでずっと現行制度では認められなかったことによって何が守られて来ていたのか?
私たちは、それにについて知り、それについて考える必要性があるのではないか。
自分は、社会とは私たちが生きるこの3次元空間の中で起こる現象である以上、社会を一方向的、平面的に見ているだけではその全体像は掴めないし、“いま“という瞬間だけで社会が有るはずもないと思っている。
現代に生きる私たちが、夫婦別姓を良しとしない現行制度を変えようとするにせよ、現行制度を必要とした社会について知るということは、社会を過去から現在へと繋がる時間性と空間性を伴う連続性として捉えるということでもあって、そういった作業をつうじて、商品価値として組み込まれてしまう制度ではない、過去の伝統やしきたりを現代が必要とする制度へと変化させることが出来るのではないか。
人は得てして社会を近視眼的に、一方向性によって捉えがち…。
人をそうさせるものは何か。
そこに“便利さ“があるのではないか。
現代社会に生きているという自覚があるのなら一度ぐらい、それを疑ってみてはどうか…と思う。

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