「街の気配をつくる何か~素粒子が放つエネルギーの総体 波動 」

昨年末、大学に通う娘の引っ越し先を見がてら、年末年始は長野に帰るよ…という娘をピックアップしに東京へと出掛けた。

娘の東京暮らしも、もうすぐ丸4年。

自分も妻も東京で一人暮らしを経験し、長く東京に暮らしていたこともあってか、我が家3人を繋ぐ重要な要素として“東京”がある気がする。

自分も妻も、東京で最初に暮らした街は高円寺周辺で、その後、点々と暮す場所が変わりつつも、東京ではずっとJR中央線沿線の街に暮らし続けた。

自分が妻と出会った頃、たまたま二人とも暮らしていたのが国立市であったことが、いまに至る大きなきっかけだったのだけれど、その後、娘が生まれてからも国立市に暮らしていたことからすれば、自分も妻も、生粋の中央線線人間ということになろうか。

そして、ずっと中央線沿いに暮らしたがっていた娘も、ついに中央線沿線へと還り付いたという感じ。

娘が中央線沿線に暮らすことになって、何となく安心する自分であることを不思議に思いながらも、でも考えてみるとそこには、自分が良く知る道があって、入ったことのある店や、使ったことのあるビルや階段、人が行き交う様子、建物の間から見える風景やその向こう側に沈む太陽の光の感じ…とか、自分の友達が近所に暮らしていたことも。

そういったことが街の気配をつくり、やがて波動となって、その波動に同調する人達が集まることによって、街が放つ波動がより強くなってゆく…。

勿論、そういった街の波動とは中央線だけに限ったことでは無いけれど、でも、中央線沿いの街は中央線沿いにしかない独特の波動を伴っていて、その波動は東京の中でもかなり独特な、かなり強い波動である気がするのは、自分と中央線波動が同調するということでもあって、自分と妻、そして娘も同じ波動に同調しているということ。

だからこそ、娘がその波動を伴う街に暮らしているそこに安心を感じるのだと思う…。

こういったことを言い出すと、“あれっ!意外にスピリチャルなんですね?”とか、やっぱり央線線の人なんですね!!…とか、言われそうだけど、確かに、こうしたこともスピリチャルと言えるのかもしれないけれど、でも、これもまた“自然”ということなだけ。

本当に信用できる安心とは、結局のところ波動が同調するかどうかによって得られるものだと自分は心底思っている。

波動とは、空間の一部に生じた状態の変化が、次々に周囲に伝わっていく現象や状態を生み出す何か。

そうした状態はそれぞれ固有の周波数と波長を持っていて、目には見えないけれど、物理的な波として振動している“何か”…波動が空間を伝わってゆく。

音波、水の波紋、地震波、電波なども波動ではあるけれど、自分が思う街が放つ波動とは、この世に存在する全ての物質(人間・生物・物体等)である素粒子が放つエネルギーの総体のことであって、光や音、電波などと同じように固有の周波数と波長を持つ“何か”のこと。

それは例えば、オーラや気などと呼ばれたりもするけれど、自分は、美術もArtに対してもそれとまったく同じ捉え方をしていて、美術やArtにとって最も大切なことは作品に伴う波動であって、その波動に同調するかどうかこそが最も重要。

ようするに、いくら著名な評論家が優れていると評価してたとしても(評価もまた波動を伴うとは自分は思っているけれど…)、その作品が放つ波動に観る人がどれだけ同調出来るかは判らないということ…。Artの良し悪しなんてものは自分で感じて決める他無いということだと思う。

街もまたそれは同じで、自分がそこに暮らして安心出来るかどうかは、街が放つ波動にどれだけ同調するかどうかであって、他人が下した評価など自分の心の安心にとっては大してあてにならない。

そこで問題?となるのが、自分が安心できる波動とはどんなものなのか?

そう言った波動があるとして、その波動をキャッチ出来るようにするにはどうすれば良いのか??

自分はそれをかなりざっくりと言うとすれば、それこそが、“経験と学び”であって、その経験と学びをもたらすものが教育だと思っている。

さらに言えば、人もまた波動(素粒子)によって出来ていることからすれば、人はそれぞれ固有の周波数を波長を持って振動していて、私たちはそれれを“個性”と呼んで済ませてしまっているのだけれど、人の波動は人の数だけあることからすれば、教育の方法もまた人の数分だけ違いがあって当然ということ。

教育とは何も、数学だとか国語だとかということでは無くて、自らの波動を如何に自覚し、如何にそれと同調する波動を掴めるようになるか?という過程そのもの。

美術やArt、芸術とは、自分が放つ波動と同調する波動を知り、選ぶ過程に於いて極めて重要であって、その意味からすれば、教育にとっては最終的にそれがなければ、自分にとって何が必要で、何を学ぶべきか判らないということだ。

昨年の大晦日。

せっかくの家族で過ごす大晦日なので、大晦日の雰囲気でも味わおうと思って久しぶりにテレビを点けてみたものの、…これと言って見たい番組も無かったし…、

それなら…と、Amazonで配信していた、ヴィム・ヴェンダース監督の「PERFECT DAYS」を観ることにした。

ヴィム・ヴェンダース監督は、音楽通でもあって、その選曲はどれもとても素晴らしいのだけれど、この映画の中で流れていた、金延 幸子の1972年のアルバム「み空」に入っている「青い魚」を聞きながら、自分がかつて暮らしていた中央線沿いでの日々が重なって見えた。

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