今年最初にGallery MAZEKOZEで予定していた展示会に代わり、急遽、自分達の…RIKI-TRIBAL の展覧会をすることにした。
自分たちが、いま・ここ に至るにあたっての大きなきっかけは、Art(美術)との関わりとPlanterCttageという場づくりであるのは明らかで、MAZEKOZEという場づくりもまたそことの関係無くしてあり得ないことから、今回の展示ではそこに焦点を充てつつ、私たちが考える場にとってArtあるいは美術がどう関係しているのか?なぜそれが必要なのか?について、自分たち自身があらためて捉え直すための展示をすることにした。
そのことからすれば、今回の展示は、PlanterCottageから始まる、小池雅久と小池つねこ の二人によるArt unitであるRIKI-TRBALにとっての始めての回顧展ということになるのかもしれない…。
アートユニットは、個人では無く複数人によるArt表現形態のこと。ザックリ言えば、音楽でいうところのバンド編成みたいなものでもある。
最近はアートユニットによる表現は多数見受けられるし、既に珍しくもないけれど、Artや美術の場合、複数人の思考を一つの表現に表すことは極めて難しいことであって、個人表現とは違い、あえてArtをユニットで行う意味は何処にあるのか…ということに対する説得力が求められる…。
それを思えば、Artの場合、ユニットであるよりも個人である方がずっと気楽?だと自分は思うのだけれど、そんな自分が“場”について考える時、”場”は、常に変化する時間と空間とに関係しているとして、その時間と空間が“場”に成り得るためには、一か所(自分一人)の時間と空間で起こる関係性だけで無く、少なくとも二か所以上(二人以上の)の時間と空間が必要で、その二か所以上の時空を形づくる関係性を見出し、紐解く必要がある。
自分たちが行う場づくりに於いてユニットである必要性もここにあると言える。
異なる2か所の時空で起こることには、一見、何の関係も無いように感じるけれど、異なる二か所とは言っても間違いなく、この世という時空を共有していることからすれば、少なくとも同時代性と同時間性を持っている。
はるか太古から現代へと続く生命の連続性とこの関係性は間違いなく関係があるはずで、自分が「美しい」と感じるそれは、自分とは異なる他者に同時間性・同空間性を持って伝播しているはずだ…。
それを確かめるためにも、自分を取り巻く時間と空間だけでは無く、自分以外の他者を取り巻く時間と空間を如何に触れ合わせ、如何に融合させたら良いのか…。
1999年に始まるPlanterCottageからMAZEKOZEへと続く場づくりに於いては、自分以外の他者の視点、他者の思考こそが重要だった…。
他者の経験が自らの経験として感じられるために必要な時間と空間。それが、場であるのではないかと思っていると同時に、Artや美術における自己表現もまた、この世という同空間性・同時代性を持って行われるものである以上、自己と他者とを如何に融合させるか…それこそが重要であって、自己の表現が他者と出会い、そして融合するための場がどうしても必要だと思っている。
自己表現における“自己”とは、言うまでもなく自分自身である「私」が関わる何らかの表現行為のことではあるけれど、美術家を名のっている自分だからと言って、その自己表現が美術あるいはArt表現だけとは限らない。
そもそも、“この世を生きること“それ自体が自己表現でもあって、そのことからすれば、この世を生きるすべての人は表現者であって、芸術やArtといった表現は、この世に生きるすべての人達が、そのことに気付くためにあると言ってもいいと思う。
この世とは、生きとし生けるものすべてが関係し合うことによって成り立っていることからすれば、本来、人に限らず、すべての存在・生存の権利はすべて平等であるはずだ。
しかし社会という概念が、ある共通項によってくくられた、他から区別される人々の集まりであることから、社会という概念の下では、“この世”を人間中心に捉えがちだ。その結果、行き過ぎた人間中心の考え方はこの世の平等性を阻害する。
少々極端な捉え方をすれば、社会とは言わば、この世における人間以外の存在する権利、生存する権利を人間が掌握した上に成立する人間中心集まりを示していて、この世の平等性が保たれているとは言えない状態であるとも言える…。
そんな社会に於いて本来は、個人が有する権利はあくまでも自己に限定されるものであるはずが、社会という不平等な状態の中に於いては、個人の権利の平等性までも侵害される恐れがあることは忘れるべきではないと思う。
現代社会が選択している資本主義を中心に置いた社会体制とは、自己の権利を如何に拡大するかといった方向性に向いた思考と共にあるとも言える。
本来、自己が有する権利が拡大されるということは、一方で自己の権利が剥奪されるということでもあるはずなのだが、社会には既に、ここを巧妙にすり抜ける様々な方法に覆われてしまっていて、この事実に気付くことすら難しい…。
社会における共有・共同という概念は、“自己とは何か”という深い理解の上に成り立つはずだと自分は考えているけれど、そのことについて、学校で学んだ記憶がない…。
Artとは自己表現の上に成り立つことについて否定しないまでも、Artや美術が自己表現の枠、線を越える勇気を持たなければ、この世の平等性はけっして取り戻せないと思う。
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