「感性」

以前からなんとなく感じてはいたけれど、最近ますます強く感じていること。
それは、「手は考えるためにある」 ということ。
手の動きが脳と直結しているのはもちろんだけれど、なんというか、脳で考えるよりも早く…脳を介さず直接…のような感覚。
おそらくそう感じるほどに手を動かしながら考える時間が長く、多いということなのかもしれないけれど。

重さを数値で表すことが出来ても数値は重さをもった実体ではない。どんなに解像度が高いカメラで撮影したとしてもそれはあくまでも記録された情報にすぎない。
複雑化し続ける社会が円滑に機能するための情報共有、情報管理、数値化やプログラム…そうした必要性を否定しないけれど、実体や瞬間が持つ独特の質感…いわゆるクオリアは社会の円滑性が満たされれば満たされるほどに失われてしまう。

自分にとっての大きな関心ごと。
それは、この実体や瞬間が持つ独特の質感は何のためにあるのか…ということ。
私たちの感性を育むことと深く関係していると思ってはいるのだが、心はなぜそれを感じてしまうのかは解らない。
感性とは簡単に言ってしまえば、心の平行を保つ装置のようなもの。
心が平行に保たれていないと歩くことも考えることもできなくなってしまう。
善も悪の判断も、優しさとか辛さ、痛みとはどういったものかも解らなくなる。心此処にあらず…生きているという実感を感じられず、いつも心が不安にさいなまれてしまう。
私たちがこの社会で生きるために、社会の円滑性は様々必要ではあるものの、その一方で大切な問題はそれによって失われがちな実体や瞬間だけが持つ独特な質感を如何にして感じ続けるかということ。
感性には心の均衡を保つ機能があり、社会が複雑化し社会の円滑性が求められれば求められるほどに重要性を増す。

気が付けば自分は、既に30年もつくり続けてきてしまった。
美術家を名のっているとは言え、彫刻も美術も建築も…それそのものをつくることに大きな目的を感じてはいない。
もちろん、つくるからには納得ゆくものがつくりたいとは思うけれど、でもだからと言って技を極めたいという気持ちが無い。
いわゆる職人さんとは相性があまり良くない。建築家もデザイナーも…。何をするにも中途半端な奴だと思われるのかもしれないけれど、彫刻であれ建築であれ、それもまた情報にすぎず、その情報によって質感が失われる可能性があるのだとすれば、そこを目的としてつくりたいとは思えないのだ。
つくることに目的があるとすれば、それは手を動かす必要性があるからか。
だからつくる。

手をはじめとして私たちの身体全体は、そのものにしかない質感を感じとるセンサーでもあり、このセンサーが機能することによって人間の感性は育まれると思う。
感性は、数値化されたり情報化されたものでは育まれにくい。さらに身体感覚と共に育まれる傾向が強く、それも出来る限り幼いうちからその身体感覚を機能させ、感性と関係づける癖を付けることが有効だ。
生まれて間もない赤ちゃんが手あたり次第、口にものを入れたり舐めるのは、手よりも早く口が「そのものだけが持つ独特の質感」を感じる取るセンサーとして発達しているから。
そうやって人はすべて、自らの感性を育みながらこの世を生きるためのバランスを取りつつ成長を繰り返すという本能を持っている。
しかし社会の円滑性…溢れる情報や数値は感性の育みを、人としての本能すら阻害する。それは、テレビやパソコンからの情報だけでなく、常識や既成概念、社会通念も同じ。
社会円滑性によって阻害されがちな身体感覚を維持し、感性を育むためには、「そのものだけが持つ独特の質感」を捉えるきっかけと、情報化せず直感で判断し行動する癖化が必要だと思う今日このごろ。

いま、家…をつくらせてもらっている。
家の機能性はそれとしてあるけれど、この家づくりでは構想から設計・制作の過程すべてにおいて、そこに住まう住人のみならず、手をつかってつくることによって感性が育まれる場となればと思いながらできるかぎりを手を使って進めている。

興味ある方は、是非一度現場に遊びにいらしてみて下さい。

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