縄文の時代、竪穴式住居の中で調理はしていなかったそうだ。
日常の炊事場は、寝起きする住居とは別の場所にあったという。
住居の中心で火が焚かれることによって暖まることができる…という効果はもちろんあったはずだが、でもこの時代の住居の主たる目的は自然現象である雨や風から火を守るためにあったということ。
ライターもマッチも無かったその時代、人々は火を起こすことに長けていたはずではあるけれど、火は人々の暮らしにとって極めて重要で、密接に関係していたことは間違いない。
火そのものや、火が燃える…という現象の中に、人智を超越した力を感じていたはずのヒトは、火が生命の根源の一つであると考えることによって、火と共に生きることを決意し、火を家に招き入れ、その火を家の中心に置くことによって、ヒトが生きるこの世を感じていたのではなかろうか…。
その意味からすれば火はまさに生命を司る神であり、「家」とは神の宿る場所であるとも言える。
しかし、私たちが生きる日常から「火」はあまりにも遠退いてしまった。
竈で米を焚くことも無くなり、落ち葉や枯れ草はゴミとして集められるだけで焚くことはなくなった。
火は見えなくなった。
それとはいったいどういうことなのか…。
火が燃える音、薪が爆ぜる音
その音は縄文時代から…否、それよりも前からヒトがずっと聞いていたはずの 生命の連なりの音 であるはずなのに。
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